Present for you!


 オレの人生において、カレンダーを見てため息をつくことがあるとは思っていなかった。

 いつだったか高尾がよこした、景品だかおまけだったとかいう卓上カレンダーの6月には、傘を持ったカエルが2匹並んでいる。何をどう判断したのかは知らないが、「真ちゃんこういうの好きっしょ」と言われて渡されたそれは、やたらに動物が擬人化されたキャラクターでごたごたと飾られている。
 まもなく6月が終わる。そうすれば当然7月になる。7月を6日すぎれば、オレの誕生日だ。
 誕生日、という言葉を意識すればため息がまたもれる。こんなに誕生日を迎えることに対し憂鬱な気分を覚えるというのもまた、オレにとっては予想外だった。

 去年のことだ。
 秀徳高校を卒業して大学生になったオレは、志望していた薬学部での勉学に励み、これまでと変わらず人事を尽くした日々を送る、はずだった。
 いや、生活自体になんら問題はない。入った大学も、そこで学ぶ事柄も、新しくできた友人も、どんな形であれ続けていこうと決めたバスケに関しても、オレの人事は尽くされている。ただ、決定的に何かが不足しているという違和感が常にオレにつきまとっていた。
 じくりと刺さって抜けないトゲのような感情の正体に気づいたのは、5月も半ばを過ぎたころ。肩のあたりでひょこりと揺れてはやかましくしゃべり続ける黒い頭を、無意識に探している自分に気がつき、オレは大いに狼狽した。だって、まさかありえないだろう。オレを苛む強烈な違和感の正体が、高尾が不在である事実である、などと。
 1ヶ月、悩んだ。自分の心に問いかけ、生まれる感情を点検してはそれを否定したり肯定する作業をくりかえして、気づいた事実をなかったことにしようというオレの試みは、徒労に終わった。「久しぶりに会わねぇ?」という高尾のメールを受け取って胸が弾み、顔を見たとたんに心臓が引き絞られるように痛むようでは白旗を揚げるよりほかない。
 忌々しいが、認めよう。
 オレは高尾に恋をしている。

 認めてしまえば認めてしまったで、オレは高尾に会いたいなどという不本意極まりない感情にふりまわされることになった。
 声が聞きたいし顔が見たい。それだけならまだしも、髪や頬にふれたい、もっと近くであいつを感じたいという気恥ずかしい欲求は際限なくわきあがる。生まれて初めてのそれに戸惑いつつも、どこか甘い感触はオレを酔わせた。本当に不本意だが。
 その状態に変化が訪れたのは7月7日。自分でもどうかと思うくらいに高尾のことしか考えられず、高尾のことで頭をいっぱいにしていて、だけどそれを必死で隠そうとひそかに奮闘しているオレに、あいつはのほほんと言い放った。
「今日真ちゃん誕生日だよなー。なんかほしいもんある?」
 ほしいもの。そんなもの、ひとつしか思い浮かばない。黙り込んだオレに、高尾は無遠慮に顔を近づける。
「おーい。聞いてる?」
 顔が近い、たったそれだけのことで頭に血がのぼることにオレは動揺した。手をのばせばふれられる距離に高尾がいる。肩をつかんでひきよせたい。その体を腕のなかにおさめたい。ぐるぐると渦を巻いてめぐる欲求と戦うオレにあいつは気づかない。気づかないまま、のんきな顔でオレに返事を催促する。
「ほしいもん、ねえの?」
 あのときあんなことを口走ってしまったのは、絶対にそのせいだ。あいつがオレの葛藤に気がつかず、ぐいぐいと近づいてきたせいだ。

「高尾がほしい」

 発してしまった言葉に、返ってきたのは高尾の爆笑だった。ぶひゃひゃと体を折り曲げるように笑い、ひいひい言いながら目じりに浮かんだ涙をぬぐって高尾はオレンジ色の瞳を細めた。
「いーよわかった。じゃあ今年の誕生日プレゼントは、高尾くん1年ぶんな!」

 こうしてオレは高尾の1年をもらいうけた。
 高尾とはそれを機に距離が縮まった。というより、高校時代のものに近くなった。1年もらったという事実が妙な安心を呼び、誘いをかけやすくなったのだ。
 オレの急な呼び出しにも、やや無謀な頼みごとにも、高尾は笑って応じる。「しょうがねーな、1年ぶんのオレプレゼントしたもんな」という言葉と共に。
 1年ぶん。
 オレは高尾がほしいと言った。それに対する返答が「1年ぶん」だ。つまり、期限つきでなければオレに自身をくれてやる気はないということなのだろう。
 それが意味するのは、オレの恋の成就は絶望的だということにほかならない。
 告げるまえに終わってしまった恋心は鈍く鋭く痛む。初めて知った失恋というものはひどく苦く、全身を切り刻むような心地がする。バスケの試合で負けたときとはまた違う、存在を無条件で全否定されたかのような苦味を味わいながら、それでもオレは高尾と会うことをやめられなかった。
 呼べば来る。会えば笑いかけてくる。高校のときと何ひとつ変わらず、気安い空気をまとってオレの隣でへらへらと楽しげにしている高尾を見れば、いとおしさが増すことはあっても、思いを断ち切って忘れてしまおうという気にはなれなかった。
 そんなオレの苦悩などまったく知らずに過ごす高尾が、憎らしくなることもある。無防備に無邪気にオレの部屋でくつろいでいる姿を見てふいに生まれた衝動を抑えきれず、口づけてしまったのは秋のはじめのころだった。
 高尾の唇はやわらかかった。そのあたたかい感触に酔いしれたのは一瞬で、高尾の呆然とした表情を見て我にかえり、内心とんでもないことをしてしまったとひどく動転した。
 けれど高尾は拒んだり怒ったりすることなく、ただ笑った。
「……嫌ではないのか」
「んー、うん。別に。ほら、オレ1年間は真ちゃんのだから」
 邪気のないその言葉に、オレは安堵しつつ落胆する。
 プレゼントの約束だからか。そこにお前の意思はないのか。
 好きだ。気づけ。1年ではなく、永遠にオレのものになれ。
 その言葉は高尾にむけて発することができないまま、オレの胸の底に沈殿しつづけている。

 女々しい、くだらない、まったくもってオレらしくない。
 自嘲しながら秋が終わり、冬を過ぎて春を迎えた。その間、始末の悪いことに高尾への思いは育ちつづけている。
 悩むことに飽き、言葉にならずに募る思いを持て余したオレはやがて開き直り、高尾にキスをすることにためらわなくなった。あいつの気持ちがあろうとなかろうと、この1年はオレのものなのだ。キスくらいして何が悪い。ときどき生じる虚しさやみじめさに目をつぶって高尾をそばに置く日々を続け、そして今、オレはため息をついている。
 まもなく7月。あの日から、1年が経とうとしているのだ。
 高尾がオレのものである期間が終わろうとしている。

 

 


 スマホのカレンダーアプリを閉じて、オレはため息をついた。
 もうすぐ6月が終わる。梅雨なんていつのまにか終わってて、もうちょっとでテストが始まる時期になろうとしていて、でも問題はそこじゃない。
 誕生日にお前がほしい、愛しのエース様がそんなぶっとんだことを言ったのは去年のことだ。あいかわらずの仏頂面のまま、頬と耳を赤くしてそう言われてオレは笑い転げた。笑い転げて、しまったのだ。

 オレがどんだけ真ちゃんのこと好きかなんて、アイツは全然わかってない。高校のときからずっとだ。気づいたら友情はとっくに別のもんに変化しちまっていて、ウソだろマジかよって驚きながらも受け入れるしかないくらい、オレの心を占領していた。だけど、ひたすらにバスケに情熱を注ぐ横顔を見ていたら好きだなんて言えなくて そのままオレたちは高校を卒業した。
 友だちなら、なんの問題もなく一生近くにいられる。そのためにはちょっと距離を置いて気持ちを冷まさなきゃって言い聞かせながら、オレは真ちゃんとは違う大学に入った。だけど猛烈なさびしさがオレを襲うから、情けねぇけど大学生を楽しめずにいた。
 ふりかえっても緑の髪を揺らす長身が目に入ることはない。あの強烈におかしいラッキーアイテムを見て笑うこともない。短いセンテンスで命令するように話しかけてくる声を聞くこともない。
 なんだこれ、耐えられねー。びっくりするくらいの飢餓感に苦しみながら、それでも連絡をとることはなかなかできなかった。
 真ちゃんはきっと、大学でも今までどおりに人事を尽くすだろう。変なトコは相変わらずだけど、ずいぶん人当たりもよくなったから友だちだってきっとできる。将来やることもきっちり決まってるようなやつだし、きっと忙しくしてるはずだ。
 ……緑間真太郎の日々には、もうオレの入る余地なんかないかもしれない。
 連絡してみて、オレは忙しい、用件がないのに会う理由などどこにもないのだよ、なんて言われたらへこむどころの騒ぎじゃすまない。真ちゃんにとって過去のヒトになることをおそれて、それでも勇気をふりしぼってメールを送れたのは、大学に入って2ヶ月後のことだった。
 久しぶりに会った真ちゃんはやっぱりラッキーアイテムを持つおは朝信者で、記憶よりもなんだか若干挙動不審で、だけどやっぱりカッコよかったし可愛かった。
 ダメだ、やっぱ好きだ。一度会ってしまえば気持ちはふくらむ一方で、またすぐに会いたくなった。高校のオレはなんて恵まれてたんだ。ちくしょう。毎日一緒に過ごせるとか、今考えたらそんなの幸せすぎて死ねる。なんでオレ平気だったんだろうって不思議に思うくらいだ。

 友だちでいいから、苦しくていいから、一緒にいたい。
 我ながら笑えるくらい健気な気持ちを抑えきれず、オレは真ちゃんの誕生日を予約するメールを送った。誕生日だから、高校時代の元相棒が祝う。大丈夫、どこもおかしくないはずだ。頼むから「その日は彼女と過ごすのだよ」なんて爆弾よこさねーでくれよとキリキリしながら返事を待ち、短い了承の言葉をもらったときは小躍りした。
 そんでプレゼントは何がいいかって聞いたら、まさかの「高尾がほしい」だ。意味がわからない。下僕がいないと不便なのだよってことか? オレのエース様は大学になじめていないのだろうか。
 それとも。
 浮かんだのはすごく自分に都合のいい考えだった。だけどマジな空気作って「真ちゃんオレのこと好きなの?」って訊くなんて、どうやったらできんだよ。違うのだよバカめって照れ隠しじゃない本気のテンションで返されたら、いつもの態度を保てるか自信がない。
 真ちゃんになら、たとえ真ちゃんに気持ちがなくったってオレを全部あげたってかまわない。ホントの本気でそう思ってるけど、そんなこっぱずかしい本心を告げられる度胸はオレにはなかった。真ちゃんがオレのこと好きかも、幸せすぎることを夢見る自分が恥ずかしかったのもあって、ホントに伝えたい言葉の代わりに出てきたのは笑い声。そして、「いーよわかった。じゃあ今年の誕生日プレゼントは、高尾くん1年ぶんな!」というセリフだった。

 なんだよ1年ぶんって。なんの分量なんだよそれは。
 あとで思いっきり頭を抱えることになったその言葉を、撤回するチャンスは訪れなかった。あれから真ちゃんがこのことを話題にすることはなかったし、オレのほうから「やっぱ1年ぶんじゃなくて一生ぶんやるぜ」なんて言えるわけがない。そんなこと言えるくらいなら、とっくに告白できてる。
 それでも、このバカげた約束はオレの気持ちを軽くした。連絡もずっとしやすくなって、会う頻度も格段に増えた。
 1年ぶん真ちゃんのものになると約束したからって言い訳をしながらでも、そばにいられる。それだけでも十分すぎるくらいだったけど、去年の秋くらいから真ちゃんはなんとオレにキスするようになった。
 そりゃもうものすごくびっくりした。そんで、それ以上に期待してしまった。そんなこと全然興味ないですみたいな顔をしてる真ちゃんにキスなんてされたら、やっぱりオレのこと好きなのかもって思っちまうのは、もうどうしたってしかたないと思う。
 真ちゃんはオレに、好きだとかつきあってほしいとか、そういうことは言わない。いつもどおりの愛想のなさで、何も言わずに静かに唇を重ねてくる。ときどきキスのあとにじっとオレを見てくることはあるけど、でもそれだけだ。
 真ちゃんの気持ちはわからない。だけど、でも、キスだ。毎週会っててラインとかもわりと頻繁にしてて、誕生日だってクリスマスだってバレンタインだって一緒だった。それでキスだ。もうこんなの、つきあってるようなもんじゃん。
 そう思うと、どうやったって気持ちはふわふわと舞い上がる。この1年、だからオレはけっこう幸せだった。気持ちを伝えていないけど、聞いてもいないけど、それでもこうやって一緒にいられるなら全然悪くない。
 だけどもうすぐ7月になって、真ちゃんの誕生日がくる。そうしたらオレは真ちゃんのものではなくなってしまう。このよくわかんねー関係が、終わってしまうのだ。
 また疎遠な関係に逆戻りする。それだけは避けたかった。

 金曜の夕方、いつもどおり授業を終えて真ちゃんの大学に向かう。真ちゃんの授業が終わるのを待って、一緒に帰って、どっかで飯食って、どっちかの家に泊まる。この1年でできた流れをなぞるように思い浮かべると、口が情けなく緩む。おかげで飲み会だとかバイトだとか、金曜の夜に一般大学生がつめこむような予定は一切入れられないけど、そんなこと別にどうだっていいことだった。
 太陽が傾いてちょっと薄暗くなってきたころ、真ちゃんは教科書が詰まった重そうなカバンを持って待ち合わせ場所に現れた。ふわりと揺れる緑の髪とか、キレイな目を隠しちゃう黒いメガネとか、あいかわらずの身長とか、左手のラッキーアイテム(今日はなわとびだ)とか、見慣れてるはずのそういうの全部が未だにオレをドキドキさせる。恋は3年で冷めるっていうけど、あれウソなんじゃねえかな。だって、3年経っても全然冷める気配がない。
連れ立って歩きながら、腹減ったなって言い合う。よく行く安い定食屋は、真ちゃんの大学の近くにある雑居ビルの4階にあって、オレはここのエレベーターが好きだ。ガタイがいい男2人が入るとぎっちぎちの狭さになるそれに、オレがひそかに感謝してるなんて真ちゃんは夢にも思わないだろう。
 理由も口実もいらず真ちゃんにひっつけるうれしさをかみしめていると、ふいに真ちゃんが身をかがめた。反射的に目を閉じる。
 やわらかい感触と、ふわりとかすめる真ちゃんの匂い。
 ちゅ、といつ聞いても気恥ずかしさと興奮で動悸が激しくなる音を立てて、真ちゃんの唇が離れていく。その瞬間がすげえさみしいからもっとしてほしい、なんてひっくりかえったって言えないし、オレからキスすることだってできずにいるんだけど。
 短いキスのあと、何事もなかったようなフリをしてる横顔を見つめながら、オレはこっそりと決意を固める。今日こそは切り出そうと決めていた。真ちゃんの誕生日近いけど、今年は何ほしい? って。

 席について、メニューを広げる。この定食屋は安いだけじゃなくてメニューがけっこう豊富で、なおかつデザートにおしるこがあることがオレたちがヒイキにしている理由だ。
 オレはからあげ定食、真ちゃんは焼き魚定食を頼んでから他愛ない世間話をする。
「真ちゃんはあいかわらず勉強ばっかなの?」
「そうだな。レポートの数も去年より増えてきているのだよ」
「うげー、大変そ。そういやこのまえ、宮地サンから連絡きてさ。今度秀徳行って後輩の様子見ようぜって話だったんだけど、真ちゃんも行くよな?」
「スケジュールが空いていればな」
「まったまたー。そーやっていっつも無理して時間作るくせにぃ」
「うるさい」
 いつもどおりの雰囲気だけど、オレはこっそり緊張を高めていた。手のひらが汗でじとりと湿る。さりげなく、なんでもないふうに、空気読んでうまく言葉を選んで。そういうのは得意なはずなのに、どうしてこんな緊張するんだよ。
「来月はテスト期間に入るからな。本当に、予定を空けておけるかわからないのだよ」
「あーそっか、もうちょいで7月だもんな」
 深く考えずに相槌を打って、ハッとなる。この会話の流れならいける。
「7月といえばさー、もうすぐ真ちゃん誕生日じゃん」
 声が震えそうになるのを必死でこらえる。
「今年は真ちゃん、何ほしい?」
 真ちゃんがぴたりと動きを止める。考え込むように、視線が下に落とされた。思わず拳を強く握りしめてオレは返答を待った。
 去年みたいに、高尾がほしいって言ってくれ。そしたら。そしたらオレは。
 祈るような思いで真ちゃんを見つめる。だけど真ちゃんはぎゅっと眉間にシワを寄せて黙ったままで、それを見ると不安がじわじわにじんできてしまう。
 重たい沈黙に耐えられず、おしゃべりなオレの口は勝手に言葉をこぼした。
「特にないってんならさ、去年と同じ」
「——いや」
 短く切るような答えに、オレの胸に穴が開く。
 頭を左右に振って、真ちゃんは冷たく言った。
「それはもういいのだよ」
 目の前が暗くなったような気がした。心臓の音がうるさくて、しびれた指先がつめたくて、頭がうまく働かない。だけど、真ちゃんの言葉の意味は理解できた。
 もういい。もう、オレが真ちゃんのものにならなくてもいい。
 なんだ。
 真ちゃん、オレのこと好きだったわけじゃないんだ。
 そっか。
「高尾、オレは」
「まーそうだよな! うんうん!」
 とっさに出た言葉はいつもどおりの口調で、笑顔も自然に作れたから、オレはちょっとホッとする。ホッとしたら言葉はぽんぽん飛び出てきた。何か真ちゃんが言いかけていた気もしたけど、それを気に留める余裕はどこにもない。
「いやけっこー大変だったわ、1年って。真ちゃん急に呼び出したりすっから、バイトとか調整すんの苦労したんだぜ? 今年はそういう縛りないフツーのもんにしてくれよ」
「……そうするのだよ」
 答えた真ちゃんの顔は見れなかった。
 運ばれてきた定食は全然味がしなくて、物を噛んでいると涙がこぼれてきそうになってすげー困った。中身があんまりない会話をしながら、何事もなく食事を終えられたのは完全に意地だった。
 ちょっと明日用事あるから今日は帰るわ。とってつけたような言い訳を置いて、オレはそそくさと店を出た。今までそんなことしたことがないからたぶんウソだってバレたし、真ちゃんを傷つけたかもしれない。
 だけど、そんなのもうどうだっていい気分だった。

 

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