「おまえはどうして、ときどきオレの左手を見ているのだよ」
急に確信をつかれて、高尾は言葉を失った。
誰もいない、冬の教室。緑間が日誌を書き終わるのを待つわずかなあいだ。さらさらとよどみなくペンを動かす手に目をとられていた隙をつかれてのことだった。
「あ、いや、別に、見てねーけど」
いつもならもっと軽やかに動くはずの口が、なぜか動かない。言葉はもたもたと情けない響きを伴って、緑間へと届けられる。
「嘘をつくな」
まっすぐな目線が高尾を捕らえた。ごまかしを許さない、その瞳は卑怯だ。胸が苦しくなって、言うつもりのなかった本心を明かすことを余儀なくされてしまう。
「……その手、に、さわられたらどんなかなって」
これ以上ないほどの正直な告白だったが、残念なことにそういうことには驚くほどにぶい相棒には伝わらなかったらしい。緑間が眉をしかめたのを見て、高尾は嘆息する。さらに説明を重ねなければいけないと思うと、いっそ逃げだしてしまいたい。
「意味がわからないのだよ」
「わかんねーならいいのだよ」
「真似をするな」
その声に怒気がこもったのを聞いて、高尾はふいにやけくそな気持ちになった。
どうせ自分がどんなふうに緑間を思い、悩み、よろこび、苦しんでいるかなんて、目の前の男は一度たりとも考えたことがないにきまっているのだ。緑の髪におおわれた頭の奥にはバスケのことしか詰まっていないと高尾は知っている。愛だの恋だのといった事柄にはきっとなんの興味も示さないのだろう。
あいしてる。
もしかしたら、そう言えばさすがに伝わるかもしれない。けれどそれを口にする勇気が高尾にはない。言えない以上、どうやったって高尾の思いは緑間には伝わらないのだ。
ああ、でも、どうせ伝わらないのならば。
右手を伸ばし、緑間の頭にふれた。驚いたように緑間が身を硬くする。
「高尾」
「説明すっから、黙ってて」
緑間を黙らせて、緊張にふるえる手で髪にふれる。思っていたよりもずっとやわらかい緑の髪に指を通してから、ゆっくり手を下げていく。
いとおしんでいることが伝わるように冷たい指で、額を、頬を、ゆっくりとなでる。壊れものをあつかうように、すこしでも力をこめたら息絶えてしまういきものにふれるように。
親指が緑間の唇に、ふれる。乾いた感触のそれをそっと指先でなでて、高尾はつめていた息をもらした。
心臓がめちゃくちゃに音を立てて苦しい。透明な空気のかたまりが胸からせりあがってきて、喉につかえているようだった。
このままでは窒息してしまうかもしれない。だけどそのかたまりはきっと、高尾の望みや願いでできている。だって高尾は、
「……こーいうふうにさわってもらえたらいいなって考えてたの、ずっと」
手を放し、高尾は緑間から目をそらしてうつむいた。爆発してちぎれてしまいそうな鼓動に、頭を激しく叩かれているようだ。
沈黙が、痛い。緑間の返答を聞くのが怖い。だけど、からだがすくんでしまっていて、高尾は動くことができない。
「なぜ言わなかったのだよ」
返ってきたあんまりにもあんまりな言葉に、顔をあげる。緑間はいつもの無表情で、じっとこちらを見ていた。
「言えるかっての……」
仮にも愛の告白をしている相手になぜ言わなかったのか、だなんて、こいつには情緒がないのだろうか。いや、そもそもこいつの辞書には恋とか愛とかいった言葉が載っていないのだ。そうにちがいない。
こんな調子じゃきっと一生、伝わらない。絶望的な己の恋路を思ってふたたび息をもらしたそのとき。
ベリ、と聞き覚えのある音がした。
「真ちゃん、何」
「黙っているのだよ」
わずかにしかめられた眉を見て、高尾はからだをこわばらせる。知っている。この顔は。
「え、いや、だって、テーピング」
「黙っていろと言ったはずだ」
高尾にだけわかる照れたときの表情で、緑間はテーピングを外していく。それが何を示すか。そうすることで緑間が何を伝えようとしているのか。高尾の辞書には恋も愛もきちんと記載されているから、理解できる。できてしまう。
まためまぐるしくかけめぐりはじめた鼓動をすこしでもおさえるために、高尾はぎゅっと目を閉じた。
その左手がふれるまえに、心臓が破裂して死んじゃいませんようにと願いながら。