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 人事を尽くして天命を待つ。
 それは緑間真太郎の座右の銘であり、信念であり、生き様そのものだ。
 己の力で成せることをすべて成し、たゆまぬ鍛錬と研鑽を続けてこそ、運命は味方をしてくれる。そう信じて実践してきたからこそ今の自分がいる。バスケにおいて、キセキの世代と呼ばれるほどの強さを手にしているのも日頃の人事のおかげなのだ。
 だから緑間は何事にも全力を投じる。バスケはもちろん、勉強や趣味、ちょっとした勝負事にだって手を抜いたことはない。
 常に、どんなことにも、人事を尽くす。その生き方に誇りを抱いているし、これから先もずっとそうやって生きていく。そう信じていた。
 
「真ちゃん! 次の授業自習らしいぜ!」
「そうか」
「な、ちょっと屋上行かね?」
「なぜだ。授業中なのだよ」
「週末の試合でさ、ちょっとフォーメーションとか試したいことあんだよね。その打ち合わせがしてぇな~って」
「それなら昼休みにすればいいだろう」
「それじゃ時間足んないんだって! せっかくの自習なんだし有効活用しようぜ?」
 な、と笑いかけてくる高尾の表情にはひとかけらの邪気もない。しかたがないな、と答えたのはこれ以上高尾の顔を直視していられなかったからだ。
 よっしゃ、と小さくガッツポーズをしながら楽しげに教室を出ていく後ろ姿を見て息を吐く。どんな言い訳をしたところで、50分間は高尾とふたりきりでいられる事実に胸が高鳴っていることは、ごまかしようがなかった。
 

 この胸の高鳴りが、頭のてっぺんからつまさきまでつらぬいていく切なさが、恋と呼ばれるものだと気づいたのはいつのころだっただろう。
 はじめは何らかの病気を疑った。運動もしていないのに脈が速まったり、気分が高揚したり、理由もなく高尾と交わした会話を何度も思い返してしまうのは心身に異常をきたしているとしか考えられない。しかし、緑間真太郎には病気になることは許されない。常に万全の状態でなければ人事を尽くすことなどできはしないのだから。
 しかし病院に行き、検査を受けても何の異常も見つからなかった。「それでも具合が悪いのならストレスかもしれません」という医者のひとことは一笑に付した。ストレスに負けるほどやわではない自負はある。
 日々を過ごすうちに症状はひどくなる。考えあぐねた末、インターネットに答えを求めて検索サイトに現在の症状をいくつか打ち込んでみた。「胸が苦しい 原因」「特定の人 頭から離れない」「どきどきする」。パニック障害やうつ病といった単語がずらりと画面に並ぶなかに、「恋」という言葉があった。
 まず「恋」というものが病気と並んでいることに驚いた。今まで気にも留めてこなかったが、恋とはどきどきしたり苦しかったりするものらしい。だが、どうして?
 それは単純な好奇心だった。恋という事象に対してさほど知識がなかったことに気づき、知らないことがあるのは好ましくない、と思っただけだった。けれど「恋」という単語を検索して出てきた結果に、緑間はしばらく動けなかった。 一緒にいたいと思うこと。特別な存在になりたいと願うこと。何よりも大切だと感じること。また、相手にとっても自分がそのような存在でありたいと思うこと。相手が近くにいると気分が高揚し、離れるとさみしくなること。いつでも相手のことを考えてしまうこと。すべてが当てはまっていた。高尾に抱いている気持ちと画面に表示される文章がぴたりと一致して、緑間の心にすとんと着地した。
  そうか。オレは、高尾に恋をしているのか。
 
  恋をしたからには、人事を尽くす。
 自覚したその日から、緑間の人事には高尾にふさわしい人間になる努力が加わった。バスケや勉強にはすでに全力で取り組んでいるけれど、いろいろと調べて考えた結果、容姿にも気を遣うべきだという結論に達した。母親任せにしていた洋服を自分で選ぶようになり、機能面だけではなくデザイン面も重視するようになった。髪も切った。それで劇的に何かが変わったわけではないけれど、やれることをやっている自負は自信につながる。堂々と高尾の隣に立つことは何物にも代えがたいよろこびだった。
 己を磨く一方で、シミュレーションも欠かさない。結ばれることがゴールではない。高尾と恋人同士になった場合のことも想定しておかなければ、人事を尽くしているとは言い難いだろう。
 つきあうことになったら、まず何をすればいいのだろう。やはりデートをするのが一般的だろうか。休日にふたりで過ごす経験はあるが、恋人同士だけが行うデートはそれとは異なるものにちがいない。「デートの仕方」とパソコンに打ち込む。インターネットの普及は、あらゆる情報の波及と収集に爆発的な効果をもたらした。便利な時代だ。人に訊ねたり、本を探したりすることさえ憚られるような内容でさえ、一瞬で調べることができるのだから。
 無数に並ぶデートの作法について記されたサイトを、有益そうなものだけ選び出して目を通す。スキンシップをとるようにしよう。お金は多めに出そう。突発的な事故が起きてもおろおろせず、決断力のあるところを見せよう。表情には注意、不機嫌そうな顔だと印象がマイナス。歩く速度に気をつけよう。
 つらつらと項目が並ぶ画面をスクロールする手が止まる。ある単語がそこかしこにちらついている文章を見つめ、緑間はひとつ息を吐いた。
 
 たとえば、高尾とデートをすることになったら。
 どこに行けばいいだろうか。いつものラッキーアイテム探しではダメだ。高尾をよろこばせ、楽しませるものでなければならない。
 デートの定石は映画らしいことはわかった。そういえば高尾と映画に行ったことはない。おそらく高尾とは映画の趣味が合わないだろうが、そこはゆずってやることにする。なにしろ、デートなのだから。
 映画を見終わったら、食事をする。高尾は映画の感想を楽しそうにしゃべるだろう。あのシーンがよかったとか、あの役者が好きだとか、よくもまあそれだけ次々に言葉が口から出てくるものだと思いながら、その声に耳をかたむける。騒々しいのは好きではないけれど、高尾のおしゃべりは不思議なことに不快だと思わない。好きなものについて語るオレンジの瞳がきらきら光っているのを見るのも嫌いではない。
 黙って聞いている自分に、きっと高尾は首をかしげる。真ちゃんどした? 映画つまんなかった? すこし不安そうな表情もきっとかわいい。
 そんなわけがないだろう、バカめ。そう自分は答えるだろう。お前といてつまらないことなどありえない、とはおそらく言えずじまいになる。それでも高尾は笑ってくれるにちがいない。生意気そうにきらりと目を輝かせる、その笑顔がものすごく好きだと伝えたらどんな反応をするだろうか。いつものように爆笑するかもしれないし、頬を赤く染めてどうしていいかわからないといったように視線をさまよわせるかもしれない。想像するだけで楽しくなってきてしまう。
 食事のあとはどうすればいいだろうか。高尾はどこか行きたいところがあるのならつきあってもいい。たとえ興味のない場所でも――たとえばカードショップとか――緑間は高尾の彼氏なのだから、不満は言わない。相手の好みを尊重するべきだ、とデートの成功法について述べているサイトにも書いてあったはずだ。
 そうだ、サイトに書かれていたことも実践しなければ。
 お金は多めに出す――これについては問題ない。貯金という人事は尽くしている。
 スキンシップをとるようにしよう。いつも高尾のほうから過剰にも思えるスキンシップを受けているのでじゅうぶんなように思えるが、緑間からもそうすべきなのだろうか。得意分野ではないが善処しよう。
 突発的な事故が起きてもおろおろせず、決断力のあるところを見せよう。これも問題ないだろう。判断力には自信がある。
 表情には注意、不機嫌そうな顔だと印象がマイナス。これはすこし気をつけたほうがいいかもしれない。感情が顔に出にくい性質であることは自覚している。
 歩く速度に気をつけよう。これは自分には必要がない。なぜなら高尾は――――
「真ちゃん、真ちゃん?」
 夢想が破られ、ハッとなる。視線を上向けるとどこか申し訳なさそうな顔をしている高尾がいた。
「真ちゃん、悪い。昼休みちょっと用事できたから先にメシ食ってて」
「……なんの用だ」
 本当は、そんなことを訊ねる必要はない。昼休みは高尾がいないことさえわかっていれば、理由などなんでも同じだ。だけど胸がちくちくと疼くから、緑間は訊かずにはいられない。
「あー……」
 19センチ下にある頭が、横に傾ぐ。めずらしく言葉を濁した高尾は、困ったように視線をうろうろとさまよわせてからぽつりと告げた。
「呼び出し、されて」
「誰にだ」
「隣のクラスの……美術部の子」
 名前も知らない女子の姿が脳裏をよぎる。何度かバスケ部の練習試合を見学しに来て、高尾と言葉を交わしていた女子が、確か美術部だった。つまり、そういうことなのだろう。
「……そうか」
「すぐ戻ってくるから」
 さっさと行けと手を振ると、黒い頭をひょこりと揺らしながら高尾は緑間に背を向けた。
 教室を出ていく高尾の後ろ姿を視線だけで追う。いつもなかなか思うような筋肉がつかないと嘆いている肩が、ほんのわずかこわばっている。緊張しているのだと気づくと緑間の心は波立ち、ぎざぎざとした跡がついた。
 高尾はなんと返事をするのだろう。バスケが忙しいからと断るだろうか。それとも、高尾もまんざらではない気分になって告白を受け入れるのだろうか。そう思うと心臓の中心からとても不快な塊がこみあげてきて気分が悪くなる。だけど、緑間にはふたりがつきあうことを阻止する権利などない。
 鞄から弁当を取り出し、蓋を開ける。食べる気なんて全然しないけれど機械的に箸を持って弁当の中身を口に運ぶ。高尾が戻ってきたときにまったく食事が進んでいなければ怪しまれてしまう。告白の件を気にしていると知られたら、うまく言いつくろえる自信がなかった。
 
 緑間にだってわかっている。恋愛感情とは、一般的には異性に抱くものだ。「恋」ということばを辞書でひけば「異性を慕う気持ち」と書かれている。デートの成功法を教えるサイトだって相手が女性であることを想定した内容ばかりだ。男性が、男性とのデートを成功させる方法などどこにも載っていない。
 知っている。高尾はヒールなんて履かないから、歩く速度を緩めてやる必要なんてない。男らしいところを見せつけたって、高尾は胸をときめかせたりはしないだろうし、緑間がお金を多く出したりしたら不服そうに眉をひそめるだろう。だって、緑間と同じように高尾も男なのだ。どう考えたって高尾が男性である自分に恋をする確率より、他の女性に恋をする確率の方が高い。緑間の恋の勝率は、かぎりなく低い。
 思う相手の性別が同じであるということだけで、不利になってしまう現実はとても苦い。負ける戦いなどしたくはないし、この気持ちを異常だと断じられることはとてもつらい。ならばすっぱりとあきらめてしまえばいいのに、高尾への思いはとどまることを知らない。ふくらむ一方だ。
 恋とはなんとままならないものなのだろう。その気持ちに従ってため息をつきたかったはずの唇は、おかしな形にゆがむ。
 高尾と想いを通わせたいのに、高尾に気づかれないよう必死でとりつくろっている自分は矛盾している。いくらデートの仕方を調べたりシミュレーションしたりしても、思いを伝えるための人事は尽くせていない自分はひどく滑稽だ。みっともなくて、情けなくて、いっそ笑えてくる。
 だけどこの気持ちを知られて高尾に嫌悪を示されたら。二度と笑いかけてもらえなくなってしまったら。告白が失敗した場合に失うものはあまりにも大きい。嫌われたくない。今まで味わったことのない恐怖は、緑間の足を竦ませて身動きをとれなくする。
 
 恋の病とはよく言ったものだ。もう緑間はとっくに重症患者で、手の施しようがない状態にまで追い込まれている。治療する方法はどんなに検索してもきっと見つからない。
「高尾を恋人にする 方法」。そう検索して答えが出たら、どんなにいいだろう。憂鬱な息を吐きだしながら食べる昼食はひどく味気なかった。高尾はまだ、戻ってこない。
 

 
 

 
 


2016.1.8