冬日和

「うへ─さっむ! こんだけ寒いなら雪ふるんじゃね? う〜、なんかあったかいコーヒーとか飲みてえ〜」

 

 隣にいる高尾は今日もにぎやかだ。ひょこりひょこりと揺れる黒い頭を眺めながら、緑間はそっと息を吐いた。唇からこぼれた息は白く、頼りなく空中に消えていく。

 

「ひーさむ、マジさむ、あー早く日が出てこねーかなあ、寒すぎ」
「おそらく、ちょうど秀徳に着くあたりが日の出の時刻なのだよ」
「うええ、意味ねー」

 

 灰色の空に覆われた冬の早朝は歩く人の姿もなく、とても静かだ。静かで冷たい朝の道を歩くのは好きだった。意識が研ぎ澄まされていって、自分のやるべきことが鮮明になるような気がするから。
 しかし隣に高尾がいるかぎり、静かに歩くことなどできはしない。とにかくしゃべっていないと気が済まないらしい緑間の相棒は、まだ眠りから覚めていないような街中でもおかまいなしにとりとめのないことを話しつづけている。
 以前は、うるさいと思ったこともあった。だけどもうそれは過去のことで、緑間が今の緑間ではなかったころの話だ。

 

「はー早く朝練してえ〜。バスケしてりゃ一瞬であったまるのに」
「そうだな」

 

 なんということもない相槌のはずだったが、それを聞いた高尾はうれしそうに笑った。いつも楽しげで油断のない光を湛えている瞳がやわらかくくしゃりと細められる。瞬間、緑間の胸に熱いものが走った。
 高尾といわゆる「交際」というものをはじめたのは、つい最近のことだ。2回目のウインターカップを終えて、高校生活最後の一年、さらに高校を卒業したあとの人生とどう向き合うかについて改めて思いを馳せた結果、そうなった。
 もっとも緑間としては、今後よりいっそう人事を尽くして生きていくために高尾が必要だと判断しただけのつもりだった。人生は長い。緑間が予想できないような困難も待ち受けているにちがいない。あらゆる苦難を乗り越え、天に選ばれるためには、隣で同じように切磋琢磨できる人間がいたほうがいい、と思った。秀徳高校で過ごした日々が、その考えの正しさを裏づけていた。
 高尾なら申し分ない。いつもはへらへらとにぎやかだが、誰よりも努力家だし、ときどき緑間もおどろくほど負けず嫌いで妥協をゆるさない。こうありたいと願う姿に向かって尽力する様は力強く誠実だし、緑間の信念についても理解を示してくれ、あれこれと手助けしたがる。自分だって、高尾の心中についてはそのへんの人間よりもずっと理解できているはずだ。人生を共にするパートナーとして、高尾は十分な資質を備えている──と緑間は考えた。
 それを打ち明けたときの高尾のリアクションは、ちょっと予想とはちがっていた。それってオレと一生一緒にいるってこと?と訊かれ、そうだと答えると、じゃあ彼女とか作らねえの?と返ってきた。
 オレは人生をおまえと共にしたいと言っているのだよ、他の人間の話などしていない。おまえ以外は必要ない。そう答えると、高尾はきょとんとしたあと、頬を赤くさせて笑った。
 それってさあ、おまえ、プロポーズと変わんねーからな? わかってる?
 そうなのか、と頷いたが、実のところは半分くらいわかっていなかった。だが、高尾の理屈でいうとこれは「プロポーズ」で、プロポーズであるからには「交際」がスタートしたということになるらしい。関係に名前をつけることにはたして意味があるのかわからなかったが、高尾がそう言うならば、まあ、それでいい。今までと同じように高尾と人事を尽くしていけるならば、緑間にとって特に不満はない。

 

「しっかしマジで寒いわ。うー、もうちょいあったかいカッコしてくりゃよかった」

 

 ぼやく高尾はジャージにコートを羽織っただけの姿で、確かに防寒が不足しているように思われた。
 だからいつも言っているだろう、マフラーに手袋くらいしておくのだよバカめ。今までならそんな小言を浴びせていたはずだったが、緑間の右手は自然と高尾の左手を取り、そっと指を絡めていた。

 

「……へへ、真ちゃんの手、あったけえ」
「そうか」

 

 高尾の指はひやりと冷たく、それはなんだか緑間の心を切なくさせる。指が冷たいのは感心できない。高尾が寒さに凍えているのを放置しておくことなど、到底見逃していいことではない。理不尽なほど強い使命感のような気持ちがこみあげてきて、小言を言っている場合ではなくなってしまうのだ。
 それは緑間の信念とは噛み合わない理屈だった。高尾はちいさな子どもではないし、病気にかかっているわけでもない。まだ未成年だがある程度のことは自分でできる状況だ。それなのに、寒さに備えておかない不準備さを責めるよりも早く暖めてやりたいと思うなど、あまり褒められたことではない、はずだ。
 んふ、と喉を鳴らす猫のような音を立てて、高尾がついと距離を詰めてくる。緑間の腕あたりに頭を寄せ、なにやらひとりで楽しそうに忍び笑いをもらしている。

 

「何が楽しいのだよ」
「んー? 真ちゃんと手つないで朝練とか、ウケるなって」
「そうか」
「ひひ、カップルみてえ」
「カップルではないのか?」

 

 「交際」をしているのなら、そう呼ばれるのは別におかしなことではない。そう思っての発言だったが、高尾はおどろいたように顔をあげて緑間を見た。白い頬にみるみるうちに朱がさしていく様に、また緑間の胸が熱くなる。試合中に感じる昂りともちがう、よく正体のわからない熱だったが、不思議なことに悪い心地ではない。じんわりと全身をめぐっていく感覚はやけに甘くて、悪くない。
 まだ冷たい指を指の腹でそっと擦る。身じろぎした高尾の頬を左手で包むと、橙の瞳が大きく見開かれた。
 きっと頬も指と同じように冷たいだろうと思ったが、テーピング越しのせいかよくわからない。それでも念のために頬も指と同じようにそっと擦ってやると、高尾は黙ったまま目を伏せた。似合わないはずのそのしぐさがずいぶんと儚げに見えて、思わず顔を近づける。しんちゃ、と紡ぎかけた言葉をさえぎるように口づけると、やはり唇もひんやりと冷たかった。

 

「……へへ」

 

 唇を離すと、高尾がちいさく笑う。真ちゃん、とささやいて微笑む高尾は、今までに見たことがないようなやわらかさに満ちていて目を奪われる。そうか、こいつはこんな表情もするのか、と思いがけない発見に胸が踊る。もっと見たい。こんなふうにふにゃふにゃと笑う高尾を、もっと、ずっと、いつまでも見ていたい。

 

「真ちゃん、意外に手がはええな」
「む?」
「キスはつきあって3ヶ月たってからなのだよ、とか言うかと思ってた」
「……なんなのだよそれは」
「うひひ。……オレのこと、ほんとに好きなんだ」

 

 ひとりごとのように落とされた高尾の言葉が、すとんと胸のいちばん深いところに落ちていく。好き。そうか、なるほど。暖めてやりたいだとか、ふにゃりとだらしのない笑顔を見ていたいだとか、人事を尽くして生きていくために必要とは思えない欲求が生まれるのは、つまり、好きだからなのだ。

 

「真ちゃん? なにひとりで納得してんの?」
「いや。……なんでもないのだよ」

 

 行くぞ。つないだままの指に力を込めてそう促すと、高尾は笑った。
 まだ薄暗い空の下で、ほわりと光を放つような笑顔は、きっとこの先の人生をも照らすのだろう。などとらしくないことを考えている自分に、緑間は苦笑した。恋というものは、なるほど人をおかしくさせるものにちがいない。

 


2024.7.26
なんで真夏に冬の話を書いているんでしょうかね…
書きたい話と微妙にずれたけどまあいいか