翠の王子と橙の人魚

 ゆらりと水面が揺れるのを無表情に見つめ、緑間は手の中のオールを握りなおした。
 今日の空はからりと晴れ、海はおだやかに凪いでいる。緑間のような初心者――自分ではそう思っていないけれど――が海に出るには絶好の日和だ。澄んだ水面に目をこらせば小さな魚が泳いでいるのが見える。空を見上げれば海鳥が悠々と風を切って飛んでいく。とてものどかで美しい風景を前に、けれど緑間の瞳はなんの感動も映していない。もともと海は好きではないのだ。潮風に長時間あたれば体も髪もべたつくし、ひとたび嵐になれば多くの人が命を落とす。たくさんの恵みをもたらしてくれることや、この国になくてはならない存在であることは理解しているが、それでも好きかと聞かれれば否と答えるだろう。
 そんな緑間が、わざわざひとりで海に出ているのには理由がある。
 休みなくオールを漕いでいた手を止め、息を吐く。すこし休憩だ。ふりむけば陸はずいぶん遠くなっていて、いつもよりかなり船を進めてきたことに気づく。
 ここまで来れば、もしかすれば。いつも抱いている淡い期待が、ぐらりと緑間のなかで色を濃くしてたちのぼる。
 今日こそ、彼が見つかるかもかもしれない。
 
 それは三か月前のこと。
 満月が雲ひとつない空に輝く晩、緑間は護衛の兵をまいてひとり海岸を歩いていた。翡翠色の宝石で彩られたサンダルがやわらかい砂を踏む。海は好きじゃないけれど、ひとりで散策できる場所などほかにないのだからしかたがない。ゆっくりと歩きながらひとりきりの空気を大きく吸い込む。体中がこの解放をよろこんでいて、心がすこしだけほどけていく感覚がした。
 しょっちゅう刺客に狙われる身としては、護衛に守ってもらえるのはありがたいことだ。だけど緑間は人より体格に恵まれているし、武術の鍛錬を怠ったこともない。そのへんの刺客ならひとりでもじゅうぶん返り討ちにできる自信があった。だから護衛なんていらない、ひとりにしてほしい。それが緑間の本心だけれど、現状はそんなことを許してはくれない。緑間のまわりに護衛がいなければチャンスとばかりに刺客が増える。やってくる刺客を次々に返り討ちにしていれば、敵はさらに過激な手段をとるようになる。そうすれば自分以外にも危害が及ぶようになる。それがわかっているのだから、黙って護衛を従えておとなしくしていることがもっとも賢明だった。
(……こんなにうつくしい夜なのだ。ほんの数十分、ひとりになることくらい許してほしいのだよ)
 緑間の日常は、策略や駆け引き、腹の探り合いで満ちている。この国を治める王には多くの兄弟と多くの寵姫がいて、たくさんの王位継承者が国中にあふれる結果をまねいた。第三王妃を母にもつ緑間も、王位継承者のうちのひとりだ。
 王になること自体にはさほど興味がない緑間にとって、自身がもつ王位継承権がそこそこ上位であることは不幸でしかなかった。自分を利用しようとする者、あざむこうとする者、抹殺しようとする者。あの王宮にいるかぎりは、どんな人間だって自分の利益を第一に考えなければ生き残れない。今日の味方がいつ敵になるかもわからない。そんな現状をかいくぐりながら政をおこなう現実を、緑間は受け入れている。政治は好きだ。あらゆることを正しく、あるべき状態に導いて人々に健やかな暮らしを与えることは気分がいい。その責任の重さも含めて、緑間にはこの国をさらに豊かに、さらに優れた状態にする覚悟があった。
 だけど、ときどきは疲れることだってある。それがこの夜だった。
 やがて砂浜はとぎれ、ふだんあまり足を踏み入れない岩場にたどりつく。岩場には魔物が棲んでいるという言い伝えや、海岸沿いに暮らす民が本当に魔物を恐れていることなどを知らないわけではなかったが、こんなに月の光がまぶしいのだ。まがまがしい魔物など姿を見せるわけがないと緑間は勝手に判断していた。
(……声?)
 岩場のむこうから、かすかに音がした。こんな夜更けに人がいるのだろうか。日ごろの常で腰に佩いた剣に手をやりながら、慎重に進む。陸と海の境界線、黒い水面に落ちるぎりぎりのところまでやってきて、緑間は彼に出会った。
 月明かりが驚くほどまぶしく反射する海に、ぽかりと浮かぶ小さな岩の上。黒い髪からのぞく長い耳以外は自分と変わりない上半身に、光を弾いて輝く鱗のある下半身。本の中でしか見たことがない、異形の魔物と寸分たがわぬ姿に目を見開く。言い伝えは本当だったのだ。
(……人魚……なのか?)
 人間の上半身と魚の下半身をもつ魔物は、人魚と呼ばれるのだと古い文献に記されていたことを思い出す。人魚とおぼしき存在は、緑間に背を向けて月を見上げていた。
 月光を浴びて輝く髪が風になびくさまを信じられない思いで見つめる。あろうことか、魔物のそれはこれまで見たどんな美姫のものよりもうつくしかった。顔を上向けたせいで黒髪が落ちかかっている首すじからも目が離せない。なぜだろう。綺麗なものならいくらだって見てきたはずなのに、目の前の存在はそれとは何かが確実にちがっていた。
 定期的にくりかえされる波の音にまぎれてかすかな音が聞こえてくる。低くて楽しげで、リズムを伴った少し甘い声。目の前の人魚が歌をうたっている。そう気づいた瞬間、緑間の全身がぶわりと粟立った。心臓が激しい運動をしたあとのように鼓動を刻む。こめかみが熱く脈打つのを覚えて喉を鳴らした。この感情は、衝動は、なんだ。こんなものは知らない。どんな文献にも、記されていなかった。
 知らず知らず足が動く。もっと近づきたい。声を聴きたい。顔が見たい。きちんと顔を合わせて、言葉を交わしてみたい。
 焦る気持ちを乗せたサンダルがすべって、じゃり、と耳障りな音を立てる。その音に、彼がいきおいよく振り返った。
 あざやかな橙が、月の光を受けてきらめく。きつくつりあがった瞳が一瞬憎々しげにゆがみ――人魚は海の中に姿を消した。言葉をうしなって立ち尽くす緑間を残して、あっけなく、唐突に。
 
 あれから何度訪れても、その岩場に人魚が姿を見せることはなかった。
 あの月夜に見た橙を、輝く黒髪を、もう一度見たい。あの不思議な歌声を聴きたい。あのとき感じた、苦しくなるような幸福感の正体を確かめたい。
 たったそれだけの理由で緑間は船を出した。ひとりかふたりしか乗れない、小さな丸木舟で。
 猛反対する周囲を押し切ってこんなことをするのは、けして正しいことではない。国の政治の一端を担う王子としてすべきことでもない。だけどそれを超えた価値があると緑間は確信していた。
(もとより常に奇怪な幸運のお守りを持ち歩いているだの、発言と行動が理解できないだの、奇行が多い王子と呼ばれているのだ。いまさら海をうろついたところで大した問題はないのだよ)
 自嘲めいた考えを拒絶するようにぱしゃんと水音が跳ねる。ハッとなって音の方向を見るが、そこには何もいなかった。きっと、小魚かなにかだろう。息を吐いて気分を切り替え、緑間はオールを握った。
(……もう少し沖に出てみよう)
 凪いだ海を強く見すえる。この海のどこかにいるのはまちがいないのだ。
 必ず、つかまえてみせる。
 

 
 

 
 

 
 


2015.9.18