続・酒は天の美禄

 まもなく日付が変わろうとしている。時計を見上げ、緑間はそろそろか、と立ち上がった。
 会社の飲み会で帰りが遅くなる高尾を待つようになって、何年経つだろう。きわめて人当たりが良く場を盛り上げることに長け、さりげない気配りもできる高尾は飲み会でおおいに活躍するらしく、いつでもひっぱりだこだ。本人も大勢で飲んで騒ぐことが楽しいようで、ひどいときは週に何日も飲み会に出かけていく。
 仕事上のつきあいなのだということは理解しているものの、最初はそれはそれは気を揉んだ。羽目をはずしすぎていないか。飲みすぎて体調を悪くしていないか。帰れないほど泥酔し、道端で寝てはいないか。……綺麗でかわいい子に言い寄られ、うっかりその気になってはいないか。高尾が浮気をすることなどありえないけれど、不安になる気持ちはどうやったって生まれる。それが恋だ。しかたがないだろう。
 そんなふうに開き直って、ひそかに歯ぎしりしたいほど心配していたのは昔の話。今はどちらかというと、高尾が飲み会に行くのが楽しみという気持ちが大きい。もっとも、高尾には絶対にそんなこと言えないけれど。
 冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。同時にだいぶ前に買った大振りのグラスを手に取ったところで、玄関のドアが開く音がした。どん、ごつん、と靴を脱ぐ音が聞こえ、規則正しい足音が続く。ペットボトルとグラスをテーブルに置き、リビングのドアを開けてやると朝見たときと寸分たがわぬ姿をした高尾がいた。
 
「……おかえりなのだよ」
「おー、ただいま。いやー疲れたぁー」
 
 部長が3軒目行きたいってしつこくてさぁ。明るくぼやく姿はいつもと変わりない。きちんと着込んだコートを脱いでハンガーにかけ、飲み屋の匂いを消すために消臭剤を吹きつける横顔を眺めながら、緑間はじっと待つ。それが終わると、高尾はとめどなく部長の飲酒に対する情熱について語りながら洗面所へ姿を消した。もうすこしだ。経験からいって「そのとき」がくるのは、手を洗ってうがいをし、リビングにもどってくるころがもっとも多い。
 
「……真ちゃん」
 
 もどってきた高尾の顔は、さきほどよりもすこしだけ赤みがさしている。心の中で快哉を叫びながらも、緑間はそしらぬ顔でソファに置きっぱなしにしていた本を取り上げた。
 
「そんなに飲んできたのなら水を飲め。そして風呂に行くのだよ」
 
 いつもの決まり文句を言うと、高尾がどさりとからだを投げ出すようにして緑間の上に寝転がった。
 
「ふへ、真ちゃん、オレ帰ってくるのまってたの?」
 
 ふひひ、と笑いながら緑間を見つめる瞳はふにゃりととろけている。きつくつりあがった高尾の目がそんなふうになる瞬間は、そうない。緑間に抱かれて何もかもを忘れて快楽に攫われているときか――今のように酔っているときか。
 高尾は会社の飲み会では一切酔わない、らしい。それは一緒に暮らしてわかったことのひとつだ。いつでもしっかりした足取りで帰ってきて、いつもどおりの態度をとる。けれどすこし経つと、さっきまでのようすが嘘のように酔っぱらいと化す。おそらく気が抜けて、一気に酔いが回ってくるのだろう、と幾度か同様の体験をして緑間は結論づけた。時間差で酔うということのメカニズムはよくわからないが、とにかくそういうふうに高尾は酔うのだ。
 
「待っていたわけではない」
「またまたー、オレがちゃーんと帰ってくるかしんぱいしてたくせにー。ほんと、かーわいー。しんちゃんかわいー。すきー」
 
 酔った高尾はちょっと信じられないくらいにふにゃふにゃになる。ふにゃふにゃになって、ぐにゃぐにゃと緑間にまとわりつく。そして、べたべたに甘えた声ですりよるのだ。
 
「すきー、しんちゃーん」
「そうか」
「そーだよー、なんだよしらねーの? しんちゃんってばおばかさんだー」
 
 何がお馬鹿さんなのだよバカめ。普段ならそう言って怒るところだが、今はとてもそんな気分になれない。頬を赤くして笑いながら胸元に額をこすりつけてくる高尾を前にしている今、怒るなんてことは無駄な行為でしかない。
 指をのばしてワックスでごわつく黒い髪をすくいあげる。それだけの動作に高尾はうれしそうに笑った。
 
「へへー、しんちゃん、あいたかったー」
「朝会っただろう」
「あさしかあえてねーってことだろ? オレはひるもよるもいっしょがいーの!」
「だったら仕事なんてやめればいいのだよ」
「それはー、むり!」
「なぜだ」
「だってニートなんてさ、だめだろ。しんちゃんにふさわしくねーもん」
 
 しばし緑間は身もだえた。
 高尾は怒ったような顔をしているが、いかんせん発言内容がかわいすぎる。
 酔った高尾はネジが何本もゆるんでしまうらしく、普段は絶対に口が裂けても言わないようなことをぼろぼろ言ってくれる。溶けそうなオレンジの瞳で、ふわふわとやわらかい声で、いつもは見せたがらない心の裏側を教えてくれるのだ。身もだえずにはいられない。
 
「しんちゃん?」
「……そんなに、オレが好きか」
「あったりまえじゃん!」
「オレが一番か」
「いちばんにきまってんじゃーん。しんちゃんが、せかいいち!」
「オレと一緒にいたいか」
「いたいよー。ずっと、ずーっと」
 
 子どものように、ずーっと、とくりかえす高尾をこれ以上直視していられず、すこし乱暴に頭を撫でる。好きか、一番か、一緒にいたいか。高尾が酔うたびにこっそり尋ねる質問だ。それに対する高尾の答えはいつも同じで、緑間をたまらなくうれしくさせる。
 
「んふふ、しんちゃん、もっとー」
「何をだ」
「あたま、もっと」
 
 ぐりぐりと勢いよく頭を押しつけられる。高尾の鼻先が鎖骨にぶつかり、次の瞬間あたたかい感触がひろがる。
 
「こら、舐めるな」
「いーじゃんちょっとくらいー。ね、しんちゃん、ちゅー。ちゅーしよ」
「お前がそこに顔をつけていてはできないのだよ」
 
 とたんに高尾がん、と顔を緑間に向けた。普段からは想像しづらいすなおさがかわいくて、すこし意地悪がしたくなる。音を立てて鼻先にキスをしてやると、目を開けて「そこじゃねーって」と高尾が頬を膨らませた。酔ったときだけ見せる幼いしぐさは眩暈がするくらい愛らしい。頼むから外でこんな姿を見せてくれるなよと不安になりつつも望みどおりに唇を重ねてやると、満足げな笑いが返ってきた。
 
「へへ、しんちゃん、もっと。もっとちゅーして」
「酒臭いのだよ」
「さけくさいオレは、きらい?」
「バカめ」
 
 むしろ歓迎だ。その言葉だけは飲みこんで、緑間は高尾の後ろ頭をひきよせた。酒のせいか熱をもった唇に舌先でふれ、そのままするりと中に忍び込むと高尾のからだからいっそう力が抜けていく。
 
「ん、ん……っ、しんちゃ、むっ」
 
 ちゅーすんの、きもちいい。甘えたような声音にぞくりと喜びがかけのぼってくる。濡れた唇からこぼれた吐息は明らかにその先をねだっていて、だけど緑間はキスをそれ以上深くすることはしない。髪を撫でながらキスをくりかえしていれば、いずれ高尾が眠ってしまうことを知っているから。
 
「すき、だいすき、しんちゃん」
 
 キスの合間に告げる言葉が照れくさいのか、高尾はずっと笑っている。
 羞恥心やプライドを介さずに、すきだと全力で訴えてくる高尾に、昔はどうしようもなくむらむらとしてしまった。だけど今はそこまで抱きたいとは思わない。それよりもこの状態の高尾を眺めていたい気持ちが勝つのだ。
 十年前の自分だったらきっと信じなかっただろう。かわいすぎて手を出せない、という気持ちがあるなんて。
 
「しんちゃん、すき……」
 
 何度もくりかえしていた言葉がとぎれる。髪を撫でる手を止めてそっと顔をのぞきこむと、高尾は気持ちよさそうに目を閉じていた。
 
「……寝たか」
 
 まったく世話が焼ける。そんなことを言いながらも、緑間の口元は楽しげにゆるむ。意地っぱりでかっこつけたがりの、プライドの高い緑間の恋人。そんな彼のこんなかわいい一面が見られるのだから、会社の飲み会のせいで帰りが遅くなることなんてどうということはない。待っている時間も苦痛ではなくなったくらいだ。
 
「まあ……酔っていないお前も、かわいい、と言えなくもないがな」
 
 誰に言うわけでもないセリフをつぶやいて、緑間は高尾のすべすべとした額に唇をよせた。明日になったら、酔いがさめた高尾を抱こう。そうこっそり決意しながら。
 

 
 

 
 

 
 


2016.2.2
お誕生日おめでとうSS