背筋を這い上がってくる震えごと振り落とすように、ボールを床に叩きつける。ダメだ、ダメだ、ダメだ。バスケットボールがこんなに軽いはずがない。一歩駆けただけでこんなに移動できるわけがない。軽く地面を蹴っただけでこんなに跳躍できるのはおかしい。こんなの、まるで、本当に――。
「しーんちゃん」
背後からした声に慌ててふりかえる。今のを見られてしまっただろうか。スリーポイントシュートだなんてとても呼べない、おそろしいシュートを。
高尾がおかしそうに息を吐く。その様子がいつもと変わらなかったのでほっと胸を撫で下ろした。それを悟られないよう、なんだとぶっきらぼうに返事をして転がっているボールを拾いあげた。
細心の注意を払っていつものようなシュートを放つ。力をできるだけ込めずにシュートをするのは難しい。子ども相手に手加減してやっているような感覚はひどく不快だ。ああ、思い切り、全身の力を使ってシュートを撃ちたい。そうしてゴールに吸い込まれていくボールを見つめることが、どんなに。
そんな緑間の心境になどまったくかまうことなく、ボールはネットを揺らす。後ろから高尾の口笛が聞こえた。
「ナイッシュ。やーっぱ絶好調じゃん」
「……いつもと変わらん」
「そんなことねーだろ。今のシュート、全然力入ってなかったじゃん。かるーく投げたように見えたぜ」
射抜かれたように心臓が痛み、冷たい汗が背中を流れた。バレたのだろうか。だけど、高尾は楽しそうに笑っている。どういうリアクションをとればいいのかわからず押し黙っていると、ふいに高尾が笑いをひっこめた。
「……ほんと、人間技じゃねえよな」
キュ、とバッシュが擦れる音がする。高尾が近づいてくる。緑間は動けない。今ならばきっと、一歩飛びのいただけでかなり離れることができるだろう。それでも、足は床に縫いつけられたように動かせなかった。
「……言えよ。何があったのか」
左腕を掴まれる。じわじわと、さっきも感じた震えが全身を回り出す。高尾は試合のときのように鋭い光を閃かせて緑間を見据えている。この視線をおそろしいと感じるのは、生まれて初めてだった。
高尾の手が、緑間のリストバンドにかかる。思わずぎゅっと目を閉じた。その下にあるものを見れば、いくら高尾でも驚くだろう。そして恐怖するだろう。もう、緑間にできることは、畏怖の視線にさらされることを覚悟することしか残されていなかった。
「……何これ、ウロコ? うへ、すべすべしてて冷てえ。ヘビみたいだな。ってもヘビさわったことねーけど」
けれど、緑間の覚悟をよそに高尾は物珍しそうに左手をさすっている。
「なーこれ剥がしたら痛えのかな? 試してもいい?」
見上げてくる瞳はおもしろがるような色をしていて愕然とする。いったいこいつは何を言っているのだろう。これを見て出てくる言葉がそれだなんて、いくらなんでも間が抜けすぎている。
「他んとこにはねえの?ふは、人には見せらんねえとこにあったりして?」
「……高尾!」
「そんな怖え顔されてもな。おまえがなんか隠してんのなんて、とっくに気づいてたっつーの」
淡々と言われて目を見開く。ぶは、と威勢のいい笑いが返ってきた。
「バーカ、わかんねえわけないだろ。あんなに連携連携言ってたくせに個人練ばっかやるようになったり、いきなりリストバンドしたりさ。みんなは絶好調とか言ってたけど、むしろその逆にしか見えなかった。だっておまえが左手に余計なもんくっつけてシュートするなんておかしいだろ、どう考えても。おまけに部活以外でもオレのことも避けるし」
「……おまえ……なぜ、驚かないのだよ」
「真ちゃん関連で驚くとか、なんかもうありすぎてさ。今さらって感じ?」
「な」
「あーでも、さっきはさすがにちょっとびっくりしたかな。ふりむいた真ちゃんの目が光っててさ。暗いとこにいるネコみてえに」
あわてて手で顔の上半分を覆う。「メガネに指紋ついちゃうぜー?」とのんびりした声が追いかけてくる。なぜか、唐突に頭に血がのぼった。
「だから、どうしておまえはそうふざけていられるのだよ! オレは遊んでいるわけではない、これは……!」
「わかってんよ。おは朝のせいとかじゃねえんだろ?」
高尾の指が動いて、そっと醜くひび割れた皮膚がリストバンドにかくされる。見上げてくる瞳には、あいかわらず恐怖は映されていなかった。
「なんでこんなんになったのか心当たりねえの?」
体調不良を尋ねるような調子の声に、緑間の心をぱんぱんに膨らませていた何かがゆっくりとしぼんでいく。ため息をこぼすと、胸をふさいでいた大きな栓が外れたような心地がした。
「……わからん。1週間前、起きたらこうなっていた。が、だんだん広がっている。左手と……右耳のうしろ、腰のあたりにも同じようなウロコがあるのだよ」
「あーそんで着替えもこそこそしてたんだ?」
「見られるわけにはいかないだろう、こんな……不気味な、ものを」
「まあフツーは人間にはウロコ生えねえもんな。最近のスーパープレイもそれのせいなんだろ?」
「確証はないが……おそらくそうだと思う。体調の変化とウロコの出現した時期が一致している」
もういいか、という思いが緑間を満たす。高尾に知られてしまったのだから、もういい。あとは何が起きようが同じことのように思えた。
「体が、とても軽いのだよ。ボールもピンポン球のようだし、皆の動きも遅く見える。今ならば火神より高く飛べる。……どんどん、そうなっていく。――もう、これ以上バスケをすることは、できない」
「なんで?」
「こんな体でバスケをすることに、なんの意味がある。何もせずとも簡単にシュートが決まる。ほとんど疲れることなく、コートを駆けられる。……人事を尽くしてもいないのにこれでは、不正をしているようで…………楽しめない、のだよ」
「身体能力がすげえのも才能のうちだろ」
返ってきた答えに目を瞬かせる。ふざけても茶化してもいない、真剣な面持ちをした高尾は、緑間の胸をごつんと叩いてみせた。
「オレだって、もっと背が高くて、もっとウエイトあったら、今より強くなれる。でもどんだけ鍛えても、牛乳飲んでも、生まれ持った体のつくりってのはそうそう変えられるもんじゃねえんだ。……体ごと取り替えたいって、たまに思うぜ」
「……高尾」
「そりゃ真ちゃんは人事尽くして毎日めちゃくちゃ練習してっけど、でもあのスリーは練習すれば誰にでもできるようなもんじゃない。真ちゃんの体が、バスケをするように生まれついてるんだ。まあ、今の状態は生まれつきのもんじゃないけどさ、今の真ちゃんが持つ力じゃん。それを利用すんのは悪いことじゃないんじゃね?」
意外な本音に緑間は自分のおかれた状況を忘れた。思わず高尾の手首をつかみ、はっと何かに気づいた顔をしてからそっと、高尾に悟られないよう手を離す。
「……それに、さんざんキセキの世代だの化け物だの言われてきただろ? 今さらじゃね?」
にやりと笑った悪そうな表情に、心臓に詰まっていた最後の重しが溶けて消えた。フンと鼻を鳴らすと高尾が笑う。
「まあでも真ちゃんが楽しくバスケできねえのは問題だよな! それ治す方法探そうぜ」
2016.7.27
書きたいところだけ書いてますね…