深い緑の森のなか

 窓の向こうで、木々がそよいでいるのが見える。
 横たわったまま、高尾は緑の葉が風に揺れるさまをじっと見つめていた。木は高尾にとって近しい存在だけれど、幹や枝や葉をこんなふうに眺めたことはない。妙な気分だ。そもそも、こんなふうに明るい時間から横になっていること自体、今までの人生ではなかったことなのだ。
(……下手打っちまった、なあ)
 鳥と人の力の両方を備えた鳥人族である高尾は、このあたりの森を根城として気ままに生きてきた。仕事といればあちこち飛び回って食べられそうなものを探すことくらいのもので、天気のいい日はひなたぼっこをし、雨の日は木の洞で過ごした。一族の中でもとりわけすばしっこい高尾にとって、狼などの天敵から逃げるのもたやすいことで、一片の憂いもなく毎日楽しく暮らしていたのだ。一週間前までは。
 すばやさには自信があったからこそ、どこか慢心していたのだろう。いつものように食料を探してうろうろしていて、うっかり人間が仕掛けた罠にかかってしまった――なんて、間抜けとしか言いようがない所業だ。
 人間に捕らえられた鳥人族が生きて帰ってきた例はない。万一罠から逃げられたとしても、無傷ではいられない。罠にかかったときの傷がもとで命を落とす仲間はこれまで何人もいた。
 だから高尾も最悪の運命を想定して、できるかぎりの抵抗を試みた。だが動けば動くほど罠は鋭く足に食い込み、傷を深めるばかり。そうこうしているうちに罠を仕掛けた猟師の男がやってきてしまった。
 ひどく背が高い男だった。夏の森のような深緑の髪と瞳をもち、どこか他人を寄せつけない雰囲気で、物腰には無駄がない。それまでもっていた猟師のイメージとはかけ離れた男に、高尾は目を奪われた。男のほうも、罠にかかった高尾をじっと見つめていた。どうやらすこし驚いているようだった。
 やがて男は、何も言わずに罠を外した。鋭い歯に挟まれ血を流している高尾の足を綺麗な水で洗い、腰の袋から取り出した薬草をすりつぶして塗りつけ、白い布を巻き、そして高尾を抱きかかえてこの家まで連れてきたのだ。
 それからずっと、高尾はその男に看病されている。
 森に住む多くの動物たちと同じように、高尾は人間が嫌いだった。やつらは森を荒らす。動物を必要以上に狩り、遠慮なく木を切り倒し、貴重な果実を奪っていく。自分たちが森の主であるかのような傲慢なふるまいに腹を立て、隙あらば人間を森から追い出そうと考えてきた。だから今のこの状況は屈辱でしかない。そのはずなのに。
 そっと布団をたぐりよせる。建物も家具も、猟師の身なりも、質素なものだ。おそらくそう裕福ではないのだということは、人間ではない高尾にも察せられる。だが、あてがわれた布団はふかふかとやわらかく、上等のものだった。
 男がわざわざ、街に行って自分のためにこれを買ってきたことを高尾は知っている。それだけではない。食事も、傷の手当に使う薬草も、男は惜しみなく与えてくれる。自分の生活に余裕があるわけでもないだろうに。
(なんでオレに、そこまでするんだろ)
 男に何かしてやった覚えなどなく、丁重に扱われる心当たりはひとつもない。もしかしたら太らせて食べるつもりなのかもしれないと思ったが、人間は鳥は食べても鳥人は食べないと聞く。
(でも、あいつは人間だし……)
 心をゆるすわけにはいかない。そう思うのに、すぐに高尾の目は窓に向いてしまう。男はいつも朝早くに出ていって、日が暮れるまえにもどってくる。そろそろ帰ってくる時間だ。
(待ってなんか、ねえし。寝てるのが退屈なだけで……)
 むりやり窓から視線をそらし、寝返りを打つ。自分の気持ちと戦ってそわそわと落ち着かなく過ごしていると、遠くのほうから足音が聞こえてきた。
(帰ってきた……!)
 慌てて布団をかぶって目を閉じる。傷の痛みで意識が朦朧としているときはよかったが、元気をとりもどしつつある今、どういう態度をとったらいいのかわからない。
「……寝ているのか」
 低く静かな男の声が降ってくる。とたんに心臓の鼓動が速まり、ますますどうしたらいいのかわからなくなる。
 人間の声に恐怖を覚えているのとはちがう。嫌悪感でもない。かといってうれしいとか楽しいといった感情でもなく、ただただどうしたらいいのかわからない。こんなふうになったことなどないから、混乱の上に困惑が重なって収拾がつかなくなっていく。
「傷はどうだ」
 帰ってくると、男はいつも同じことを訊く。布団からそろりと足を出すことで、高尾はその問いに答えた。
「……ふむ」
 巻きつけられていた包帯が解かれる。男の指がふれるのを感じ、ますます鼓動は高鳴った。そっと傷跡にふれる手つきは優しく、あたたかい。顔が熱い。ただ傷を診られているだけなのに。
「よくなってきたようだな」
 男の声音はいつもと変わらない。なのに、足首からふくらはぎを撫であげられ、高尾はおどろいた。そんなふうにふれられたことは一度もない。
「な……!」
 布団を跳ね上げると、男の視線にぶつかった。深い緑の瞳。そこに見たことがない熱が宿っていることに気づいて、高尾は息を飲んだ。
「……そろそろ、名を教えてほしい」
 そう言いながら男は高尾の足を撫でるのをやめない。着物の裾をめくりあげ、太ももに手を這わされる。そこに明らかな意図があるのを感じとり、けれど高尾は金縛りにあったように身動きがとれない。
「た、かお……」
「高尾」
 確かめるように呼ばれると、それだけで背筋がふるえた。自分の名前に特段の思い入れなんてなかったのに、なぜかとても特別な響きに聞こえてしまう。
「……オレは、緑間という」
 緑の瞳に緑の髪。その姿を象徴するような名に、普段なら笑いだしていただろう。
 だけど今はとても笑えない。みどりま。心の中でその名を呼んだだけで、胸が焼けるように痛む。ぎゅうっと引き絞られるような痛みは苦しいはずなのに、ひどく甘く全身を満たしていく。
「高尾……」
 熱い手が太ももからさらに先へと移動していく。大きなからだが覆いかぶさってきて、布団に押し倒される。しゅるり、下着の紐をほどかれて顔がますます熱くなった。その行為が何を意味するのか、高尾にもわかっている。
 男に、それも人間の男に。絶対に受け入れられないはずの仕打ちなのに、おどろくほど嫌悪の感情が湧いてこない。心臓がうるさく鳴るばかりで、ことばも紡げないし男の手を振り払うこともできない。
「……逃げないのか。足は動かせなくても、飛べるだろうに」
 緑間の表情に嘲りの色はなく、純粋な疑問といたわりがある。ここまでしておいて何を、と思うとおかしくなって、ようやく高尾はすこしだけ笑った。
「オレのこと食べたかったんだろ?」
 わざと挑発的に告げてやると、森の色をした瞳があざやかに燃え上がる。ふたたび覆いかぶさってきたからだを受け止めながら、高尾は目を閉じた。
 本心は言えない。今は、まだ。

 

 

 


2021.5.30
黒クロのカササギくんをイメージしています。