欠けた針で心が満ちる

 緑間のことなら誰よりも知っている。
 たとえば朝、練習のために体育館に入るときは必ず右足を先にする。昼休み、弁当を開けて最初に口にするのは必ず白いご飯だ。勉学に人事を尽くすのは当然だろうなんて澄ましているけれど、実は社会にちょっと苦手意識をもっている。調理実習のときに危なっかしい手つきで野菜を切ったことを高尾に笑われたのを、ずっと気にしている。うれしいことがあると、ほんのすこしだけ唇の端が上がる。入学してからずっと変わらない、革製のペンケースはファスナーが壊れかけていて、開けるのに毎回ちょっと苦労している。新しいものに替えないのは、それが妹からのプレゼントだからだ。
 高尾はいろんなことによく気がつくほうで、目ざといという自覚がある。だけど、部活仲間に対してこうまで細かく把握したことは今までなかった。
 部活仲間だけではない。親しい友人だって、ちょっと好意を抱いた女子にだって、かわいくてしかたがない妹にさえ、ここまでの意識は向けたことがない。緑間が、特別なのだ。
 それがどうしてか、なんてことだって、高尾にはとっくにわかっている。
 
 退屈な授業中、ふいに教師が緑間の名を呼んだ。甘くて低い、高尾の脳をとろけさせる声が応えて立ち上がる。
 背筋をぴんと伸ばして颯爽と黒板の前に向かった緑間は、流れるようなしぐさで白いチョークをとった。カツ、と硬い音が響く。
 緑間が解答を黒板に書く。日常にありふれている、本当になんでもない行為なのに、それを見つめているだけで高尾の胸はバカみたいに高鳴る。
 勉強が好きなわけではないけれど、授業は好きだ。こういうとき、後ろ姿を存分に見つめることができるから。いつも一緒にいたって、そんなことができる機会なんてなかなかない。部活中にぼんやりするなんて言語道断だし、そもそも緑間をじっと見つめるなんてこと、できるわけがないのだ。そんなことをすればきっとすぐに気づかれてしまう。高尾の全身をなみなみと満たす、焦げついた恋情に。
(……ああでも、いっそ)
 気づかれてしまったほうがいいのかもしれない。同性で、チームメイトで、相棒である緑間に、高尾は生々しい恋愛感情を抱いている。
 そのことを知ったら彼は嫌そうに顔をしかめるだろう。バスケに全身全霊、持っているすべてを注ぎ込んで頂点をもぎとらなければならないのに、何にうつつを抜かしているのだよ。そう言われたら高尾の目も覚めるかもしれない。くだらんと切り捨ててくれたら、高尾もこの思いをつまらないゴミみたいに扱えるかもしれない。そうすれば相棒として、何ひとつうしろめたいことなく、堂々と隣に立てるようになるだろう。そうしたらきっと、高尾は自分をゆるせるはずだ。
 解答を書き終えた緑間が、ふいにふりむく。油断していた高尾はしっかり視線を合わせてしまった。しまった、と思うよりも先に緑間の表情が動く。
 その瞬間にこみあげる感情を、なんと表現すればいいのか高尾にはわからない。へたくそだという自覚がある作り笑いを浮かべ、不自然にならないように視線をそらすのがせいいっぱいだ。
(本当に、真ちゃんは、ずるい)
 心をゆるしたような色でわずかに微笑まれたら、どうやったって心臓が跳ねあがる。捨てたいとくりかえしてばかりいる気持ちがおそろしい勢いで加速する。好きだ好きだ好きだ、壊れたオルゴールみたいにその言葉ばかりが脳内を埋め尽くしていく。
 これ以上、好きになんてなりたくないのだ。すでに隙間がないくらい高尾の中は緑間でいっぱいになっているのに、これよりさらに上があると思わされるのは怖い。告げることができない思いはどこにも行けず、体内で膨れ上がるばかりだから、気道がふさがって息ができなくなる。
 怖いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。それなのに、緑間を思うことを止められない。それどころか、この胸の疼きをどこかで楽しんでしまっていることに、高尾は気づいている。
 緑間が席にもどってくる。高尾の席を通りすぎる瞬間、「授業に集中するのだよ」と声をかけられた。からかいを多分に含んだその声に、おかしくなってしまうくらい胸がきりきりと痛む。
 手の施しようがないほど重症だ。ぼんやりしていることを気づかれた、たったそれだけのことが痛いほどうれしい。他人の違和に気づいても自分から声をかけることなどほとんどない緑間が、高尾には声をかける。その事実に特別なものを見出したくてたまらなくなる。
(もう、やめてくれ)
 顔を見るだけで、声を聞くだけでこんなふうになってしまっては、何もないふりをしてそばにいつづけることなんてできない。そもそも、授業中にこんなふうに切なくてたまらなくなってしまうこと自体、おかしいのだ。
 すべては無駄なことなのだ。だって、緑間が同性を――相棒を、チームメイトを、自分を好きになるなんて奇跡、起きるわけがない。
 さっさとあきらめて気持ちを切り替えたいのに、感情は高尾の願望を無視して勝手に暴れまわる。高尾の感情は高尾のものであるはずなのに、高尾にはどうすることもできない。
「……高尾? 具合が悪いのか」
 ささやき声と同時に、制服を軽くひっぱられる。ふりかえると緑間が心配そうな色を瞳に浮かべているから、息苦しくてたまらなくなる。
(……話しかけないで。何も言わないで、真ちゃん)
 そんな風に見つめられると、言えるはずのない言葉が飛び出してしまいそうだ。真ちゃんとキスがしたい、と。
 なんとか感情を飲み込んで笑うと「無理はするなよ」と緑の瞳が揺れる。その光を浴びて、高尾の心をちくりと刺す棘がまたひとつ、増えた。

 

 


2016.5.5