学生の本分は勉強である! って格言が世の中にはあるけど、そんなもんはただの単語の羅列であって、今この状況においてはなんの意味もなさない。
つまり、オレは今勉強どころではない。部活が午前中で終わってしまった土曜の午後に、好きなヤツとふたりっきり。この状況で勉強に励める人間がいたら、それはもう緑間真太郎以外にはいないだろう。
かりかり、と乾いた音を立ててノートを綺麗な文字で埋めていく真ちゃんを見つめる。座った状態で向かい合っていて、なおかつ真ちゃんの目線が下にあるもんだから、いつもあんまり意識しないことばかり目につく。伏せたまつげの長さとか、その下にある頬の白さとか、厚めの前髪にかくされた眉毛の端正さとか。いっつもシワばっかり作ってる額も、勉強に集中している今は平らになっていてホント黙ってれば綺麗だよな、なんて考えてしまう。不機嫌そうな表情も、ツンツンとんがった悪態もない真ちゃんは芸術品みたいだ。
あまりにもじっと見つめていたからか、オレの視線に気づいて真ちゃんが顔をあげる。澄んだ緑色の瞳がきょとんとしたあと、みるみるうちにしかめっつらに変わるのがおもしろい。とてもかわいい、見慣れた表情だ。
「何を見ている、高尾」
「んー、真ちゃんの顔?」
「そうではない。なぜ課題をやらずにオレの顔を見ているのか訊いているのだよ」
かち、とメガネを直しながらそんな説教めいたことを言ってきても、残念ながらオレには効果がない。ソレが照れかくしだって知ってるから。
「コイビトの顔見ててなんか問題あるわけ」
「オレは課題をやれ、と言っているのだよ」
そっけなく言い放って真ちゃんは視線をノートにもどす。冷てーの、というオレの抗議も無視だ。
真ちゃんはいつでもブレない。何事にも人事を尽くす。やるべきことを全力でやる。さしあたっては、課題が大量に出ているから真剣にやっている。それでこそ緑間真太郎なんだけど、だからといって真ちゃんが真ちゃんであることが、いつもオレの心を安らかにするわけではない。
かまって、なんて口が裂けたって言いたかねーけど、残念ながら今そういう心境だ。なんとかしてこのカタブツの気を引いてやりたいけど、つまんないちょっかいをかけるようなマネは逆効果だ。
会話の糸口を探して真ちゃんの部屋を見渡すとカレンダーが目に入った。七月。重大なことを思い出す。
「真ちゃん来週誕生日だろ。なんかほしいもんねーの」
「特にない」
「だよなぁ」
真ちゃんは物欲があんまりない。目の色変えてほしがるもんといえばラッキーアイテムだけど、それだって基本的には「自分で手に入れなければ意味がないのだよ」だ。
無駄に金持ってるから、仮にほしいものがあっても自分で買えちゃうのも頭が痛い。つーかそうなんだよな、金持ってんだよなコイツ。おかげさまでオレは恋人がほしがるものを買ってあげてよろこばれる、という経験をしたことがない。あ、おしるこがあるか。でも、あれは誕プレとして扱いたくない。なんせ百二十円だ。
オレの沈黙をどう捉えたのか、真ちゃんがちらりとこっちを見た。うろ、と目線をさまよわせている様子がかわいい。
「オレハオマエガイレバイイノダヨ」
「え、何?」
早口すぎて聞き取れなかった。純粋に疑問の声をあげると、頬を紅潮させて怒ったような顔をされる。
「だから! オレはおまえがいればいいと言っている! 二度も言わせるな、バカめ」
ちょっと聞きかえしただけなのにバカとかひどくね? という抗議は一瞬でどっか遠いところに消えていく。今のセリフ聞いた? オレがいればほしいものはない、だって。
「ブフフッ!!」
熱烈すぎんだろ。顔が赤くなっている自覚があったから、笑いながら机に突っ伏してごまかす。フン、とバカにしたように鼻を鳴らして真ちゃんは問題集のページをぱらりとめくった。もうオレなんて眼中にありませんって態度だけど、耳がまだ赤いからただのポーズだってバレバレだ。
ほんと、真ちゃんはかわいい。バカでかい図体で、仏頂面で気難しくて近寄りがたいオーラをふんだんにふりまいてるくせに、内に秘めてるもんはびっくりするくらい純粋で、余計な飾りやごまかしがない。照れ屋で恥ずかしがりやなくせにかくしごとがヘタだから、ときどきそのピュアなもんをチラ見せしてくんのはマジで反則だと思う。
ちょっとだけ見せられたら、もっと見たいって思っちまうのが人間の性だろ。好奇心旺盛なオレにはたまったもんじゃない。オレが緑間真太郎に夢中で、あまつさえかわいいなんて思っちゃうのは、全部コイツが悪い。
あー、好きだ。すごい好きだ。ちょっとヤバいくらいに好きだ。
腹の底からむずむずするような衝動がつきあげてきて、じっとしているのがつらくなってくる。これが愛しいって感情だってことを知ったのは、真ちゃんに会ってからだ。そのうちこの感情で体がはちきれんじゃないかって、わりとマジで思う。
もちろんそんなの困るから、その前に手を打ちたい。膨らみすぎた風船から空気を抜くように、オレも感情を外に出す必要があるのだ。
「しーんちゃん」
シャーペンを投げ出してにじりよる。右手をつかんで、ぐっと体を寄せると真ちゃんとの距離が一気に近くなった。
「オレがいるのがいちばんのプレゼントってんならさ」
突然の攻勢に驚いて、見開かれている瞳がかわいい。白くてすべすべした頬に唇をくっつけるとつるりとした感触がした。
「もっとオレをそばで感じたくねえ?」
唇を薄くて形のいい耳に移動させてささやくと、真ちゃんの体は笑っちゃうほど硬直した。
真ちゃんがオレをそういう意味で意識してる証拠を見つけるのが、すごく好きだ。もっともっと探し出して、目の前に並べてやりたくなる。ほら、こんなにオマエ、オレのこと好きなんだぜってな感じで。
オレの言葉の意図を正しく理解したのだろう。一拍おいて、真ちゃんは大きく息を吐き出す。同時に肩をつかまれて、体をひきはがされた。
「やめろ」
オレにはその気はないのだよ、とでも言いたげだ。シャーペンを握りなおし、課題に意識を集中させている様子からはオレの誘いを拒否する空気がびしびし伝わってくる。
普通ならここで引き下がるだろう。だけど相手はあの緑間真太郎で、オレはその相棒だ。オレの親切丁寧でわかりやすい誘いに乗ってこないのは、単純にその気がないわけじゃないってことくらいお見通しなのだ。
いっつも涼しげな顔でストイックな態度をとってて、そのうえ色恋沙汰の話題に疎いせいで、エロいことなんか全然興味ないんじゃないかって思われがちな真ちゃんだけど、マジで興味ないわけじゃない。いくら変人で偏屈で電波と呼ばれようと、ヤツだって男なのだ。
それに、真ちゃんは情が深い。好きだと思ったものを嫌いになることはないし、一度大事にすると決めたらとことん貫く。その範囲がちょっとばかり狭いから誤解されがちだけど。
いや、狭いからこそ深く愛するのかもしれない。真ちゃんの心はきっと細長い花瓶みたいになっていて、たくさんの人が入れるつくりにはなっていない。だけどその中に入り込めさえすれば、たくさんの愛情で満たしてもらえるのだ。
つまり、オレが何を言いたいかというと、恋人とふたりっきりなのに真ちゃんが平然としているのは、真ちゃんに性欲がないわけでもオレへの愛がないわけでもない、ということだ。
真ちゃんはガマンしてる。真ちゃんの中にある、真ちゃんの判断だけで決められた人事のせいで。そしてそれは、オレを思いやるからこそなんだって見当がついている。
けどさ。
「真ちゃん」
かたくなにシャーペンを手放そうとしない左手にそっとふれる。テーピングが施されていない甲のあたりをゆっくり撫でると、真ちゃんの肩が揺れた。
「……なんだ」
「ぶっちゃけて言うと、したいんだけど、オレ」
細かい駆け引きが面倒くさくなってそう言うと、真ちゃんの眉間のシワが深くなった。こういう直截的な表現を好まないのは知ってるけど、残念ながらオレはこういうことに飾りたてた言葉を使うのは好きじゃない。愛しあいたいとか、ひとつになりたいとか、そっちのがよっぽど恥ずかしいだろ。
「真ちゃんだってそうなんだろ?」
真ちゃんが動かないことをいいことに、両腕を首に回してゆっくり引き寄せる。のぞきこんだ緑の瞳は揺れていて、オレの考えがまちがいではないことを教えてくれる。もうひと押しといった感じだ。首を伸ばして、唇のすこし下に焦らすようなキスをした。
「そんなことはない。離れろ、高尾」
「イヤだね」
首すじと顎の骨のあたりにキスをして、さらに体を乗り出す。動揺しているらしい真ちゃんがバランスを崩してうしろに倒れこんだので、オレが押し倒した格好になった。勝った気分になって、とても楽しい。
ぺろりと顎の下の薄い皮膚を舐めてから、唇を舌でつつく。オレの挑発に真ちゃんはあくまで抗うつもりらしく、肩を押し返そうとしてくるからふんばって耐える。力比べみたいな状況がだんだんおかしくなってきて笑い声をあげると、不愉快そうな視線が返ってきた。
「遊んでいるわけではないのだよ」
「オレだって」
「……高尾」
はあ、というため息を落としてから、真ちゃんが表情をあらためてオレを見る。
「明日も部活がある。体に負荷がかかることはするべきではない」
そこにあるのは、明日の予定を考慮してないオレの浅はかさを責めるんじゃなく、純粋にいたわるような目線で。
やっぱりな、と思うオレの胸に生まれるのはうれしさが半分、いらだちが半分。
「オレは平気」
「バカを言うな」
それはこっちのセリフだ。真ちゃんに大事に思われるのはそりゃうれしい。うれしくないはずがない。
だけど、だけどさ。
「そういうのいらないんだよね」
見下ろした真ちゃんの目が細められる。オレの言いたいことがわからないんだろう。
真ちゃんがオレに対しても人事を尽くそうと思ってくれていることはわかっている。オレがケツから血を出して痛がったりしないように。オレと真ちゃんが大事に大事にしているバスケに支障が出ないように。だから、軽率にセックスするのはだめだって思うのは、まあ、わからなくもない。
だけど、じゃあオレの気持ちはどうなんのって話だ。オレの、この真ちゃんが好きで、好きで、好きすぎてどうにかなりそうっていう気持ちはどうやって消化すればいい?
あいにくオレは緑間真太郎じゃないから、どうにか忍耐してやりすごそうと思うほど変態じゃない。愛情と欲望で破裂しそうな気持ちをもてあますくらいなら、ちょっと体がしんどいほうが全然マシだ。そういうことを真ちゃんはわかってない。
「真ちゃんがしないってのは、人事を尽くしたいからだろ?」
「わかっているのなら、」
「でもその人事の尽くし方、まちがってんじゃねーかなって思うんだよね」
プライドの高い真ちゃんの顔がぴき、とひきつる。オレにまちがってるなんて言われることほとんどないから、これは効いたみたいだ。
「絶対痛くないように、明日全力で部活やっても大丈夫なようにするっていう、人事の尽くし方もあるんじゃね?」
緑の髪をそっとかきわけて、おでこにキスする。メガネが邪魔で、薄いまぶたやほんのりあったかいこめかみにキスができないのがやや不満だ。早く外させてしまいたい気持ちをこらえて、もう一回おでこに唇をつける。真ちゃんの体で好きじゃないとこなんてないけど、ここはとりわけ好きな部位に入る。すべすべしていて、硬くて、気持ちがいい。
「……そんなにしたいのか」
「そりゃもう」
ってかおまえだってそうだろ。自分はちがうみたいな顔してんのも、気に食わない。
「ならばオレを襲えばいいだろう。それなのに襲えと迫るなんて、本当におかしなヤツなのだよ」
「ふっは! 真ちゃんにおかしいとか言われたくねーし」
真ちゃんを抱くってのはまだやったことがない。オレが真ちゃんをとろとろに溶かして揺さぶって翻弄しちゃうってのもめちゃくちゃ魅力的だと思うけど、残念ながら今のオレがほしいのはそれじゃない。
「やーだ真ちゃん、オレに抱かれてーんだ?」
「バカめ、そうではない」
慌てて赤くなる真ちゃんがかわいくてぎゅっと首すじにしがみつく。ぽかぽかとあったかい体温を全身で感じると、もう一秒だって待っていられない気持ちになる。
「オレさあ」
「なんだ」
「部活終わったあと一回家戻ってからココ来たじゃん?」
「ああ」
「準備、してきたんだよね」
ひゅっと、言葉を失う気配がした。純情な真ちゃんにはちょーっと刺激が強い誘い文句だったかな、なんて頭の中でふざけていたら視界がぐらりと揺れた。気づいたら真ちゃんがオレを見下ろしていて、どうやら形勢逆転されたらしい。
「高尾」
オレの頭の横に手をついて顔を近づけてくる真ちゃんの瞳には、まぎれもなく凶暴な熱がこもっている。オレは心の中で快哉を叫んだ。
「そこまで言うのなら」
言いかけておいて、真ちゃんはオレの唇をふさぐ。ふれたところが熱くて、脳が痺れたみたいになって、ガンガンと脈打ちはじめる。心臓の裏側あたりから細かいさざ波みたいなふるえが追いかけてくる。思わず真ちゃんの腕をつかむとキスが深くなった。
「……人事を尽くしてやるのだよ」
キスの合間の宣言に、オレは笑う。きっと極悪人みたいな笑いを浮かべたにちがいないのに、それを見て真ちゃんが凄みのある顔で笑う。
ほしいのはそれだ。緑間真太郎の内に潜む獣だ。
オレは知っている。コートの中で、こいつがどれほどの闘志を相手にぶつけているか。勝ちたいという欲求を全身にみなぎらせる様がどれだけのオーラを放っているか。
オレは、あれと同じ烈しさがほしい。性欲と闘争心は同じじゃねーけど、どこか似ている。今のオレじゃ、悔しいけど闘争心はぶつけてもらえない。だったらせめて、よく似た激情がほしかった。それに、性欲ならオレだけが独占できる。緑間真太郎の唯一の劣情。そんなもの、ほしくないわけがない。
真ちゃんの口内に舌を滑り込ませながら首に手を回す。こういうときじゃないとしない類のキスは、それだけでどうにかなりそうなくらい興奮する。それは真ちゃんも同じはず。
あの燃えるような緑色をぶつけてほしい。すべて喰らい尽くすような強いまなざしで、オレだけをほしがってほしい。真ちゃんに、自分からほしがってほしい。オレに乞われて許すんじゃなくて。
唇の端からこぼれた唾液を乱暴にぬぐって、ベッドに連れてってよとささやく。
「オレ誕生日プレゼントなんだから、大事にしろよな」
「フン、よく言う。おまえなどプレゼントにほしがった覚えはないのだよ」
それでも倒れたオレを引き起こす腕は優しく、ついでのように贈られるキスは烈しい。
ベッドに横たえられながら、オレは笑う。何も飾らない、なんの肩書もない緑間真太郎を得るのは、満たすのは、オレだけだ。
「ちゃんと気持ちよくしてね、しーんちゃん」
安い挑発にひっかかった緑の瞳が、火花を抱いたような輝きを放つ。
それを見届けてから、満ち足りた気持ちでオレは目を伏せた。
2015.7.7