「――じゃあなッ!」
怒りを力いっぱい込めて玄関のドアを閉める。近所迷惑だという冷静な意見が高尾の脳内をちらりと横切ったが、それよりも相手に怒りをぶつけたい欲が勝ってしまった。
しかし、肝心の緑間からは何の反応もかえってこなかった。玄関に顔を見せることはおろか、高尾の別れの言葉に対する返事さえもない。
体からはちきれんばかりになっている苛立ちがさらに膨れ上がり、さっき投げつけた言葉をもう一度胸の中でくりかえす。
もう、あんなヤツとは一緒に暮らしていけねえ!
きっかけは緑間の小言だった。何事にも人事を尽くす男はささいな習慣にも手抜きを許さず、同棲しはじめた恋人にも同じことを要求する。講義に遅刻するなとか、夜更かしするなとかは理解できる。しかし靴は脱いだら揃えろ服は脱ぎ散らかすな私物をリビングに置きっぱなしにするな飲みかけのジュースを放置したまま新しいペットボトルを開封するな箸をきちんと持て夕飯の後に菓子を食うななどなど説教は多岐かつ細部にわたった。はじめはハイハイと笑って聞いていた高尾だったが、夏休みになるからといって夜遅くにバイトをするなと言われてついに耐えられなくなったのだ。
もともと高尾は束縛するのもされるのも好きではない。「夜のシフトに入れるヤツが少ねえんだからしかたないだろ、そもそも家でくらいくつろいじゃダメなのかよ」と言い返したのが始まりで、気がついたら口論になっていた。
「バカめ、そんなに遅くまで働いていては翌日に響くだろう。ただでさえおまえは夜更かしをしがちなのだから」
「そういうのがうっせえって言ってんの!」
「うるさいとはなんだ、そんなふうに締まりのない生活をしているほうがおかしいのだよ!」
「おまえの人事をオレに押しつけんな!」
「これしきのこと人事のうちにも入らん。できて当たり前のことばかりだろう!」
「だから、おまえの常識をオレに押しつけんなっての!」
「だらしないことを正当化するつもりか、卑怯者め」
「卑怯!? ……だったらオレも言わしてもらうけどさあ。真ちゃんオレがメシのあと菓子食ってっと文句言うくせに、自分は夜中におしるこ飲んでるよな。あれ菓子と何がちがうわけ? そうやって自分の要求ばっか通そうっての、マジ腹立つ。おまえのそういう自分勝手なとこほんと無理」
「……オレばかりが勝手だというのか」
「実際そうじゃん、オレおまえにああしろこうしろ言わねえだろ」
「言うだろう、寝起きにキスをするなだのキスマークはつけるなだのセックスをするまえは絶対に風呂に入らせろだの」
「――ッ、それは話がちげえだろ!」
「ちがわないのだよ!」
「あーもう! 話のわかんねーやつだな! もういい、オレ出てく。おまえなんかとこれ以上一緒に暮らしていけねえ」
「好きにしろ。……清々する」
出ていく、なんて本気で言ったわけではなかった。だけど最後に緑間が吐き捨てた言葉は、高尾の心の奥深くをざっくりと切りつけた。その傷について深く考えたら泣いてしまいそうで、そんな自分にさらに苛立って、衝動に任せて適当に荷物を詰めて出てきてしまった。だけど帰る気などさらさらない。目的もなく駅のほうへと歩きながらも高尾の怒りはまったくおさまる気配を見せない。
(清々する、とか……こっちのセリフだっての)
うるさい小言に辟易していたのは高尾のほうなのに。
むかむかする気持ちを盛大なため息に変えて吐き出し、思考を現実的な方向に切り替える。これからどうしよう。日はもう暮れているが、そこまで遅い時間ではないから実家に帰ろうか。だけど、普段ほとんど顔を見せない高尾がいきなり帰宅したら緑間と何かあったのかと訊かれるだろう。それも今はわずらわしい。
(……誰かのとこ泊めてもらえばいっか)
友人が多いと、こういうとき助かる。泊めてくれそうな友人の顔を浮かべながらポケットからスマホを取り出すと、ラインのメッセージを受信していた。大学で同じクラスの友人からだ。
『今ヒマ?』
『超ヒマ。どうした?』
短い返信に速攻で既読がつく。
『彼女とケンカした』
『オレも』
思わずそう返信してしまう。高尾の場合、正確には彼女ではないけれど細かいことはどうでもいい。
『マジで。飲もうぜ』
『宅飲みしよう』
連続してメッセージが飛んでくる。彼は確か広島から上京して一人暮らしをしながら大学生活を送っていたはずだ。
ラッキーだ。もう落ち着く先が見つかった。
『今から行く』
それだけ返して、スマホをしまった。明日は土曜だし、バイトもない。酒とつまみをたくさん買って男ふたりでくだを巻こう。緑間のことなんか綺麗に忘れて楽しく飲み明かすのだ。そう考えるとすこしだけ気分が晴れて、さっきよりも軽い足取りで高尾は歩き出した。
「ったくよー、マジやってらんねーよ!」
「だよなぁ! いちいちうるせーっての」
高尾の相槌に友人――鈴木は赤い顔をして笑う。すっかり酔っぱらいの顔だったが、それは高尾も同じだった。
話を聞いたところによると、彼女とはバイト先で知り合ったらしい。つきあいはじめてまだ数カ月、おおむね順調なつきあいらしいが、彼女がかなりのヤキモチ焼きでたびたびケンカをしているという。
「他の女の子とふたりのシフトにならないで、とかさー。無理に決まってんじゃん? そんな理由でシフト変えてもらうとかできねーってのに、そう言うと拗ねるんだよ。じゃあいいとかって。全然よくねーくせに。ほんと、めんどくせえ」
「大変だなー! 別れちまえ!」
「そーだな、別れるか! カンパーイ!」
特に意味のない乾杯にアルミ缶同士がカシャリとぶつかる。すでに何本目かわからないチューハイを片手にして、高尾はとても楽しい気分だった。
いつも家で飲むときは缶に直接口をつけない。緑間がきちんとグラスで飲めとうるさいからだ。そして視界がぐらぐらと揺れるほど飲むこともしない。緑間が飲みすぎるなとうるさいし、いつも高尾が酔いはじめたのを見計らってこれ以上はダメだと酒を取り上げてしまうからだ。
今日はそれがない。好きなように飲んで、好きなだけ酔うことができる。その開放感は自分でも驚くほどだった。
自覚していなかっただけで実はそうとう我慢していたのかもしれない、とぼんやり霞んだ頭で思う。つきあって四年、あまりケンカらしいケンカをせずにここまできたのは相性がいいからだと思っていたけれど、ただ単に高尾が緑間に合わせてあげていただけなのかもしれない。
「で、高尾はなんでケンカしたんだよ」
「オレんとこもバイトのシフトに口出し。夜遅くにバイトすんなって。じゃあいつするんだよって話だよな」
「過保護か」
「とにかくいちいちうるせえの。部屋散らかすなとか、靴下脱ぎっぱなしにするなとか、冷蔵庫に飲みかけのペットボトル放置すんなとか。もううんざりしちゃってさあ。くつろげねえって言ったらだらしないことを正当化するつもりかーとか言うし、もう全然オレの言いたいこと伝わんねーの。だからもうおまえとはやってけねえって出てきた」
「それで荷物多かったのかよ、つうか彼女と同棲してるなんて初めて聞いたんですけど」
「あー、まあ、あんま言ってねえし」
「そっか、それで高尾オール飲みとか泊まりとかのつきあいは悪いんだな」
「家空けるとうるさいんだよ」
「すげえ束縛してくんのな、それこそ別れたほうがいいんじゃね?」
あながち冗談でもなさそうな鈴木の言葉に、あいまいに笑う。もう一緒に暮らせないなんて言ったくせに、緑間と別れた自分を想像することはできなかった。
だけど、しばらく距離を置くのはいい考えかもしれない。いつもいつも緑間の要求を呑んでやっているのがいけないのだ。高尾は緑間の所有物ではなく、なんでも言うことを聞く都合のいい存在でもないということをわからせてやりたい。そうしたらきっと、高尾の行動に逐一文句をつけてくることもなくなるはずだ。
しばらく帰ってやらなかったらどうなるだろう。想像するとうきうきしてきた。何週間か、何ヶ月かはわからないが、しばらくぶりに帰宅した高尾を見て、緑間はきっと情けない顔をする。そして「別れるなんて嫌なのだよ」とすがりついてくる。それを自分はしょうがねえなあと許してやるのだ。「もううるさいこと言わねえって約束するなら、いいよ」なんて言いながら。
楽しい。とても愉快な気分だ。そうなればいい。いや、そうしてやろう。
「マジでしばらく帰らねえでおこうかな」
「おーそうしろそうしろ」
高尾の宣言に鈴木が笑いながらチューハイを飲み干す。新しい缶を渡してやりながら高尾は切り出した。
「んでさ、今日泊まってっていい?」
「いいぜ。つか今日といわず好きなだけいろよ、狭いけど」
「マジで!? 鈴木超優しい、惚れそう! 彼女と別れてオレにして!」
「うっえ、男とつきあうとかねーわ。……でも高尾ならいいかな?」
「ウソやった、じゃあオレも別れる」
視線を合わせて爆笑する。中身のまったくない会話が楽しくて高尾はひたすら笑い転げた。
「ほんと彼女ってめんどくせえよな。男と飲んでるほうがよっぽど楽しいわ」
「なー!」
何回目かわからない乾杯をして、高尾はいきおいよくチューハイの缶を開けた。いくらでも飲めそうだったし、飲めば飲むほど胸の奥にできた傷がふさがっていくような気がした。
翌朝の目覚めはひどいものだった。頭がぐらぐらして、ガンガンして、体がずっしりと重たい。気持ちが悪い。
「うう……」
口の中もべたべたしていて、気持ち悪さに拍車がかかっている。水が飲みたくてなんとか鉛のような体を起こし、そこでようやく高尾は自分の状態に気がついた。
何も着ていない。いや、パンツは履いている。しかしシャツもジーンズも靴下もぐしゃぐしゃに丸まって床に放り投げられている。そして自分は今ベッドの上にいて、隣には同じくパンツ一枚の鈴木がいびきをかきながら眠っている。
「……マジかよ……」
どうしてこうなったのか、全然覚えていない。だけど、めちゃくちゃ飲んで酔って起きたらふたりともほぼ全裸で一緒のベッドにいる。男女だったらほぼ決まりのパターンだ。
思わず体をさわってみるが特に異常は感じられない。だけどなんだか腰が痛い、ような気がする。というよりむしろ体のあちこちが痛い。初めて緑間と抱き合ったときの痛みを彷彿とさせることが高尾の恐怖を増大させる。
(いやでも、相手は鈴木だぜ? こいつゲイじゃねえだろ。いくらなんでも)
ありえないと笑おうとしたが、痛む頭が再生するのは不安を助長させる記憶ばかりだ。あれから何度かオレらつきあおうぜ、と言い合った覚えがあった。寛大で細かいことを気にしない鈴木のことを好ましく思い、真ちゃんもこのくらいおおざっぱだといいのにと考えたことも。笑いながらふざけて抱きついたことも、そのままふたりで床に転がったことも。
ザアッと血の気が引いていくのが自分でもわかる。もちろん全部冗談だ。だけど記憶がない以上、何もなかったと断言できない。まさか、まさか本当に、緑間以外の男と。
よろよろとベッドから降りて、洗面所に向かう。頭の中はありえない、でもまさか、という考えで埋め尽くされていて、途中何度か壁やドアにぶつかった。だけどそれどころではない。
おそるおそる鏡の前に立つ。髪はぼさぼさだしヒゲはうっすら生えているし、風呂に入っていないから全身なんとなくべたべたしていて気持ちが悪い。顔は土気色で生気がなく、こんな状態を緑間に見られたらさぞかし怒られるだろう。飲んだまま寝落ちるなどだらしがないのだよと。
確かめるように、もう一度全身にふれてみる。決定的な証拠――腹にこびりついて固まっている白い粘液とか内股につけられた鬱血痕とか――は見当たらない。
やはり考えすぎだ。そもそも、高尾には酔うと脱いでしまう悪い癖があって、今回もそれが発露してしまっただけだ。もともとはノンケだった自分が、男と何かするはずがない。緑間だけが特別なのだ。そう自分に言い聞かせた直後、何気なくうしろを向いて高尾は凍りついた。
首の付け根、うなじのあたりにぽつりぽつりと赤い痣が散っている。
(……マジ、で)
虫さされかもしれないと慌てて指を這わせて感触を確かめるが、望んだ結果は返ってこない。どう見ても、まちがいなく鬱血痕だった。
(どうしよう、オレ、鈴木と、ホントに?)
冷たくじっとりとした汗が噴き出す。視界が真っ暗になり、すべての感覚が遠のいて高尾はふらふらと床に座り込んだ。
記憶の箱の中身をぶちまけたように、緑間のさまざまな表情がよみがえって脳内を駆けめぐっていく。笑った顔、怒った顔、困った顔、うれしそうな顔。他人から見ればどれもあまり変わらないらしいけど、高尾にははっきりと変化がわかる。あの端正で嫌悪に歪む様が思い浮かんで心臓が軋む。どうしよう、緑間になんて言えば。酔って友だちとやっちゃった?おまえとケンカした勢いで浮気しちゃった?
――そんなの、言えるわけがない。
その日は、ほとんどを床に敷いてもらった布団に横になって過ごした。ベッドで同じように具合悪そうにしている鈴木の顔を直視することもできない。頭の中はどうしようどうしようとそればかりがぐるぐると渦巻いていた。
(……別れる、とか、言われたら、どうしよう)
緑間はバカがつくくらい真面目だ。ずるや不正を嫌うし、怠けることもよしとしない。浮気を笑って許すなんてことは絶対にないだろう。そして、こうと決めたら愚直なまでにそれを貫く男でもある。別れようと決意されてしまったら、それをひるがえすことなんてきっとできない。
高尾は、緑間が自分にさまざまな意味で全幅の信頼を寄せていることを知っている。それを裏切られたと知ったら、緑間はどう思うだろう。怒るだろうか。悲しむだろうか。緑間は自分にも他人にも厳しいけれど、一度認めた者にはいっそ無防備なほどの信頼を寄せる。それを粉々にしてしまったら、きっとひどく傷ついて落ち込むだろう。
緑間を傷つけるのは嫌だ。悲しませるのも、落ち込ませるのも、全部嫌だ。そして何よりも、失望されるのが嫌だ。
だけど失った信頼はもどってこない。少なくとも、以前と同じ形では。
ぐっとタオルケットを握りしめる指に力がこもる。もうケンカのことなんてどうでもよかった。ただひたすらに緑間が恋しい。あんなに腹を立てていたのが嘘のようだ。
今、願いがひとつ叶えられるならなんでもする。鈴木の家に来る前に時間をもどしてほしい。そうしたら絶対にやけになって飲んだりしない。いや、むしろすぐに家に帰って緑間に謝る。そして何事もなかったように、ふたりで眠るのだ。いつものように。そうなったら、どんなにいいだろう。
(どうしよう、どうしたら)
泣いて縋ったら考え直してくれるだろうか。だけど、どんな謝罪をしても許してもらえる予感なんてカケラもしなかった。言葉を尽くせば尽くすほど信頼をなくしていく気がする。そして、かっこ悪い本音をさらすのが苦手な高尾にとってそんな真似をするのは途方もないことだった。
どうしよう。
真ちゃんを失いたくない。
それから数日は、高尾にとってまさしく最悪だった。
ケンカのことはどうでもよくなっても、緑間の待つ家には帰れなかった。どんな顔をして向かいあえばいいのかわからない。緑間に後ろめたいかくしごとなどしたくないし、だからといって洗いざらいぶちまける勇気は出ない。唯一の救いは、鈴木があの夜のことを持ち出すこともなく、高尾への態度も変えないことだった。彼も何も覚えていないのだろう。高尾にできることは首の後ろの忌々しい痕が消えているかどうか確かめることくらいで、鏡を凝視しながらじりじりと日々を過ごした。
さいわい夏休みだったので、大学に行く必要はそれほどない。バイトに行く以外は必要以上に外に出ることもせず、あまり笑わない高尾を見て、「ホントに怒ってんだな」と鈴木は的外れの感想を述べたが、それ以上は何も言わず部屋にいさせてくれた。その気づかいをありがたく思えば思うほど、緑間への申し訳なさが募る。恋愛感情ではないにせよ、鈴木へ好意をもつことは裏切りを重ねることのようにしか思えなかった。
しかし、何事にも終わりは訪れる。いつまでもこのままでいられないことはわかっていたが、ついにそのときが訪れた。鈴木が彼女と仲直りしたのだ。
「いやぁ、もうワガママ言わないから別れないでって言われちゃってさ。しょうがねーから許してやろうかなって」
「よかったじゃん」
しまりなくへらへらとしている鈴木に、なんとか笑みを浮かべて祝福してやる。仲直りをしたということは、彼女がここに来るようになるのはまずまちがいない。そうなれば、どう考えても高尾は邪魔だ。
「じゃあオレもそろそろ帰るわ。いろいろありがとな」
「そっか? まあ、おまえはまだ怒ってるんだろうけど、仲直りしたほうがいいぞ」
「……おう」
――真ちゃんが許してくれれば。その言葉を飲み込むと、喉の奥のほうがじゃりっとした。
金属をつめこまれたように重い足で家路をたどる。一週間ぶりの道は何もかもがちがって見えた。もちろん高尾の心持ちのせいで、本当は何ひとつ変わっていない。だけど高尾は今、死刑を言い渡される直前の罪人のような気持ちなのだ。目に入るものすべてがくすんでいてもきっと誰にも責められないはずだ。
どれだけのろのろ歩いていても、足を動かしている以上必ず目的地にたどりつく。固まりきらない覚悟をぶらさげて、あのとき乱暴に閉めた玄関の扉をじっと見つめる。今日は土曜日。たぶん緑間は家にいるだろう。
まずただいまと言って、それからどうしよう。たぶんまだ怒ってるだろうから謝って、それから、それから――なんでもない顔で、今までどおりにふるまえるだろうか。
幾度となくなぞってきた卑怯な考えが性懲りもなく脳裏をよぎる。キスマークはもう消えている。緑間は鈴木と面識がないし、もともと高尾はノンケだと知っているのだから、男の家にいたと告げたところで浮気を疑われることはないだろう。言わなければ、バレない。高尾がうまくやりさえすれば、きっと大丈夫だ。そのはずだ。
よし。大きく息を吸ってから、鍵穴に鍵を差し込んだ。夏の陽ざしを浴びてにぶい輝きを放つ鍵をゆっくり回転させて、もう一度息を吸って扉を開ける。
「た、だいま……」
こわごわと小さな声で挨拶を投げて扉を閉める。部屋の奥からがたんと大きな音がして、緑間が勢いよくリビングから顔を見せた。高尾の心臓が大きくジャンプする。一週間ぶりの緑間だ。
なつかしさと恋しさに、跳ね上がった心臓が着地と同時にぎゅうっと収縮する。ああ、好きだ、と今さらのように思って唇を噛んだ。こんなにも緑間のことが好きなのに、本当に自分はなんて愚かなことをしてしまったのだろう。
緑間は眉間に深いシワが刻み、唇をぐっと引き結んで高尾をにらみつけていた。やはりまだ怒っているのだろう。まずはケンカの件を片づけてしまおうと口を開きかけたが、謝罪の言葉を告げることは叶わなかった。体当たりのように勢いよく緑間がぶつかってきたからだ。
「うわッ! し、真ちゃん?」
「――高尾」
もう何千回、何万回と呼ばれた、耳になじむ低い声。それが震えていることに気づいて反射的に体をこわばらせる。緑間の腕が背中に回り、ぎゅうと抱きしめられた。
「すまなかったのだよ」
「へ……?」
「オレが、うるさく言いすぎた。おまえにはおまえの生活があるのに、考慮もしてやらず、オレは」
「や、あの、真ちゃん」
「ただ、おまえは自分のことをおろそかにしがちだから……どうしても、その」
「あーうん、心配してくれてんだよな、それはわかってたんだけど……その、オレも、ごめん」
緑間は何も言わず、ただ抱きしめる力を強めた。
「……卑怯者、などと言って、すまなかった。だから……もう、出ていったりするな」
「……うん、連絡もしねえで、ごめん」
「帰ってこないかと思ったのだよ……」
耳元にぽつりと落とされた声は、今までに聞いたことがないくらいかぼそかった。は、と吐き出された吐息はやはり震えている。それを聞いて高尾の心臓は限界まで縮んだ。縮みきったところを踏みつけられているような心地に、鼻の奥が熱くなる。緑間が、泣いている。
「……真ちゃん、ごめん」
ぶよぶよと中途半端に固まっていた覚悟は、あとかたもなく粉砕される。だめだ。緑間に、たかだか一週間帰らなかっただけで泣かれてしまうほど愛されている。この実直さを前に、何もなかったフリなんて、できない。できるわけがない。
「ごめん、オレ、大学のダチんとこ泊まってて」
ぐっと緑間の着ているシャツを握りしめる。一週間ぶりの緑間の匂いがたまらない気持ちを助長させて、言葉がうまくつむげない。
「その、鈴木っていって、男なんだけど、オレ、そいつと、浮気、した、かもしんなくて、それで、帰れなくて」
「……浮気?」
不思議そうにくりかえされ、いよいよ呼吸が苦しくなる。息を吐くと同時にぼろりと大粒の涙がこぼれ、高尾の感情が決壊した。
「ほんと、ごめん。でもオレ、ほんとに、真ちゃんが好きで、真ちゃんしかいらねえから。ケンカのとき、いろいろ、言ったけど、あんなの本心じゃなくて、だから、ごめん、真ちゃん、嫌いになんないで、別れるとか、言わねえで」
支離滅裂だ。わかっていても胸が苦しくて、鼻の奥は痛いままで、思考をまとめることができない。盛大に鼻をすすってから勇気を出して緑間を見上げる。緑色の瞳は怒りにぎらつくでも悲しみをたたえるでもなく、ただ不思議そうにまたたいていた。
「かもしれない、とはどういうことなのだよ」
「えっと……酔ってて覚えてなくて……でも起きたらふたりともパンツで寝てて」
「おまえは酔ったら脱ぎたがる性質だろう」
「や、それはそうなんだけど……起きたら、首のうしろに、キスマーク、が」
きょとんとしている緑間の顔を直視できずにうつむいた。涙は止まらず、次々と浮かんではぼたぼたと落ちていく。結果的に泣いて縋ることになったな、やればオレにもできんだなとどこか場違いなことを考えた。
「……高尾」
抱きしめられていた腕がほどかれる。不安が胸を染め上げたのもつかの間、両頬を掴まれて顔を上向かされた。熱のこもった瞳がまっすぐに高尾を見すえている。
「おまえは浮気などしていないのだよ」
「え?」
「そしてオレがおまえを嫌いになることなどありえないし、別れることも永久にない。覚えておけ」
ちゅ、と涙で濡れた唇に緑間の唇が重なる。しょっぱいのだよとのどかな文句を言う恋人に思考が追いつかず、高尾はまばたきをくりかえした。一週間の苦しみがいとも簡単に片づけられてしまった。肩透かしもいいところだし、なんだかすごいことを言われたような気もする。
「あの、真ちゃん?」
「なんだ。廊下は暑いのだよ、早く中に入れ」
「いや、あの。いいの? そんなんで」
「おまえは浮気などしていないと言っているだろう。それともおまえはその鈴木とやらとつきあいたいのか?」
「そんなわけねえだろ!」
「ならそれでいい」
クールに言い放って緑間はさっさとリビングにもどっていってしまう。ひとり玄関に取り残されて、高尾はひたすらまぬけにぽかんと口を開けた。
「カンパーイ。や、お互い仲直りできてよかったよなー!」
笑顔でビールに口をつける鈴木にうなずいてジョッキをかたむける。世話になったお礼として、鈴木に奢ることにしたのだ。
あれから彼女とは順調そのものらしい鈴木は上機嫌だ。勢いよくビールを飲み干し、店員に二杯目を頼んだところで、鈴木は高尾の異変に気づいて眉を顰める。
「……高尾、おまえなんでしょっぱなからウーロン茶なんだよ。飲めよ」
「いやー……もうオレあんま飲まねーほうがいいんじゃねえかなって」
「なんだよ、なんかやらかしたのか? ま、このまえのはすごかったけどな」
思い出したように鈴木がうなずく。あの晩のことを覚えていたのか。ぶわりと高尾の背に嫌な汗がにじんだ。どうしよう、ここではっきりさせておいたほうがいいだろうか。
「あの、あのさ、あのときのことなんだけど」
「まあ、酔って脱ぐくらいならいいんじゃね? オレもそうだし」
「へ。あれ、そんだけ?」
「そんだけってなんだよ。オレに抱きついていきなり暑いって脱ぎだして、オレのベッドで爆睡した話だろ?」
「爆睡」
「なんだよ、やらかしたって言うわりに覚えてねえのかよ?」
「や、なんかもっと……いろいろ、したのかと」
いろいろ?と笑いながら鈴木がから揚げにかぶりつく。どういうことなのだろう。脱いで寝ただけならこれ以上なく喜ばしいことだけど、それだとキスマークの説明がつかない。
「おまえがかわいい女の子だったらいろいろしたけどな。あ、でもおまえ、首のうしろにキスマークつけんのはやめたほうがいいぜ。夏は目立つ」
「へ?」
目を白黒させる高尾がおかしいのか、鈴木が勢いよく笑いだす。
「おまえが寝てるの見て気づいたんだけどさ。しかし独占欲強い彼女だな? めっちゃいっぱいついてたぜ」
「……真ちゃん!」
「なんだ、早かったな。おかえり」
「ただいま、ってそうじゃなくて!」
挨拶もそこそこにカバンを放り投げ、高尾は緑間に詰め寄った。ソファがふたりぶんの重量でぎしりと軋む。
「まずはうがいと手洗いをするのだよ」
「そのまえに! おまえ、オレにキスマークつけた? ケンカするまえ」
緑間の視線が泳ぐ。本当に嘘がつけない男だ。胸倉をつかんでぐいと顔を近づけ、逃がすつもりがないことをアピールする。
「オレが浮気だって思ったキスマーク、真ちゃんのだったってこと?」
「――そうだ。寝ているあいだに、つけた」
観 念したのかあっさりと緑間はうなずいた。
「じゃあなんで教えてくれなかったんだよ! オレ、ほんとに浮気しちゃったって思って」
「していないと言っただろう」
「……!」
あ れはそういう意味だったのか。起きてしまったことはどうでもよくて、帰ってきたのだからそれでいいということなのかと解釈していたけれど、存外ヤキモチ焼きな男があれほどあっさりとしているのはやはりおかしい。自分がつけたものだとわかっていたからこその余裕だったのか。
「なんで言わなかったんだよ」
なあ、と低く問いつめると緑間が困ったように眉を下げた。
「……おまえは、キスマークを嫌がるだろう。だがオレは痕をつけたかったのだよ……」
「いや、それはいいんだけど! なんでこのまえ教えてくんなかったのかってことをオレは訊いてんの」
「だめだと言われたことを、無断でやっていたと知られたら……また、自分勝手だと……おまえが出ていくかもしれないと、思って」
ぼそぼそと言いにくそうな、いたずらがばれた子どものような口調の告白に、どんな表情をしたらいいのかわからず高尾は黙り込む。なんだ、その、かわいい理由。
「も~……」
シャツをつかんでいた力をゆるめ、ずるずると緑間にもたれかかる。浮気していなかった安堵と、緑間に対する愛しさとが絡み合ってよくわからない感情に変化し、なみなみと高尾の胸を満たす。はあと息を吐いて、緑間と視線を合わせた。無表情を装っている男が、内心では高尾の反応をおそるおそる窺っているのがわかっておかしくなってくる。
「真ちゃんのバカ。オレほんっとに生きた心地しなかったんだからな……」
「飲みすぎて記憶をなくすほうがバカなのだよ。それに、本当におまえが浮気をしようがたいしたことではない」
「へ」
「またこちらを向かせればいいだけの話だからな」
「……うっわ……男前……ウケる」
赤くなってしまった顔をかくすように胸元に顔を埋めると、緑間の心音が聞こえた。緑間の指がうなじを撫でているのがわかって目を閉じる。こういうところが手に負えないのだ。高尾の予想を超える真似をひょいとやってのけてしまう。
「高尾」
「なに」
「……それはいいんだけど、ということは、キスマークをつけてもいいのか」
ねだるようにうなじをつつかれる。ぶは、と噴き出しながら高尾は緑間の背中に手を回した。そこまでしてキスマークをつけたいなんて、変なヤツだ。本当に。
「好きにしろよ」
恥ずかしくて、顔はまだあげられそうにない。
2016.7.5
「同一プロット企画」に参加させていただいた作品でした