五分間ディープキスをしないと出られない部屋

 五分間ディープキスをしないとここからは出られません。
 
 壁の中央、でかでかと貼られた紙にはくっきりかっきりした字でそう書かれている。読みまちがいでも幻覚でもない。さっきから穴が空くほど凝視しているのだから。
「いつまで呆けているのだよ」
 頭上から降ってくる声に顔を向けると、いつもとまったく変わらない仏頂面がそこにある。照れもとまどいも不安もいっさい感じさせない表情に、高尾はとりあえずへらりと笑ってみせた。
「別にそんなんじゃねえよ、ただちょーっと意味わかんねえっつうか……。ディープキスって何」
「いつもしているだろう。舌と舌を」
「だーッ! そりゃわかってんよ! そうじゃなくて、なんでそんなことしないといけねえんだって話!」
「知らん。だが、これはきっと蠍座が最下位だったせいなのだよ」
「あ?」
 かちりと押し上げたメガネの奥で輝く緑の瞳は、どこまでも真剣だ。
 「今日の最下位は蠍座のアナタ! 思いがけない困難に直面しそう」。今朝、テレビから流れてきた音声を思い出す。思いがけない困難。確かに、いつもどおり部室に入ったら大きなソファと意味不明の貼り紙しかない部屋に瞬間移動してしまい、しかもそこから出られなくなるなんて思いもしてなかった。
「いやだからって、さすがにこりゃねーだろ……」
「おは朝を甘く見るからこうなるのだよ。オレがあれほどラッキーアイテムを持てと言っているのに」
「だって今日の蠍座のラッキーアイテムってアレだろ? アレはちょっと……」
「フン、軟弱なやつめ。『フリルの付いた水着』くらい入手は楽勝だろう」
「いや入手方法っていうより持ち歩くのがさぁ……」
「――まあいい。今さらどうこう言っても始まらないのだよ。高尾」
 やるぞ。有無を言わさぬ口調で宣言され、高尾は息を吐いた。
 緑間とつきあいはじめて約一年。ふたりきりになれることはあまりないが、それでも順調におつきあいの段階を踏んできた。キスだってかなりの回数を重ねていて、唇をふれあわせるだけではないディープキスだって経験ずみだ。だから、五分間ディープキスをすることなんて、ふたりにとってはたいしたことではない。
 そう、たいしたことはないのだ。心の中でひそかに気合を入れ、高尾は部屋の中央にどんと置いてあるソファに腰掛けた。
 
「……ふ」
 ゆっくりと、乾いた唇が重ねあわされる。やわらかい感触を楽しむように何度かついばまれ、なまあたたかいものに表面を撫でられる。口を薄く開いて舌先を伸ばせば緑間の舌にぶつかるから、からかうようにつついてやる。すると肩を強く抱きこまれて口の中まで緑間が入りこんできた。
 最初は恥ずかしかったり緊張したりでうまくいかなかったけれど――歯を思いきりぶつけたときの気まずさといったらなかった――今ではもう失敗することもない。高尾からしようとすると身長差に阻まれるのだけが難点で、だけどこんなふうに座ったり寝転がったりしていれば関係なくなるのだから、ささいなことだと思うようにしている。
「……は」
 息が苦しくなったのか、緑間がちいさく息を漏らす。そっと目を開くと閉じられた瞼がわずかにふるえているのが見えた。白い肌に揃えたように並んでいる深緑色のまつげと上気した頬にむずむずと落ち着かない気持ちになり、背骨の奥のほうがじわりと痺れていく。
 まずい。反射的に恋人の舌をきつく吸い上げると、目の前にあるすべすべとした額にぐっとシワが刻まれた。
「……ふは、苦しかった?」
「別に」
「つよがんなって」
 くすくすと笑いながら、あやすように背中を撫でる。からかわれて額のシワがさらに深くなる――と思いきや、緑間は真剣な顔でじっと高尾を見つめた。
「高尾、気づいているか」
「何が?」
「あそこに時計があるだろう」
 緑間の視線を追いかける。ふたりが入ってきた扉の上の壁に、電光掲示板のような時計が設置されていた。表示は『5・00』で止まっている。
「…まさか」
「ああ、キスを始めるとカウントダウンが始まるようなのだよ」
「え、でも全然タイム減ってねーじゃん。今してたのに」
「問題はそれなのだよ。さっき、おまえが笑いだしてオレに声をかけただろう。それでカウントダウンが止まり、タイムが元にもどったのが見えた」
「へ」
「つまりキスをしているあいだ、余計な動作を行うとリセットされてしまうらしい」
「なんだよそれ、めんどくせえ……」
「おとなしくしていろ、ということだ。わかったな」
「なんだよえらそーに……ん、んん」
 文句を言い終える前に唇をふさがれ、ぬるりと舌を絡められて強く吸われる。さっきのしかえしかよと言ってやりたかったが、そうするとまた時間がリセットされてしまうのだろう。癪だけれど緑間の言葉どおり、おとなしくキスをするしかない。
 目を閉じて緑間の舌先に舌先をくっつけていると、またぐいと抱き込まれた。規格外に大きな体にすっぽりと包まれるとほわりとあたたかく、衣類の洗剤と体臭が混じりあう、よく知った緑間の匂いが高尾を満たす。まずい。あわてて身じろぎするが、ますます腕の力が強くなってしまっただけだった。
「ん、んぅ、んん」
 くち、と湿っぽい音がして頬の裏側をくすぐられ、下の歯をなぞられて肩が跳ねる。ふたたびもぞりと這い上ってきた感覚がくすぐったくて後ろに逃れようとするが、しっかり押さえつけられていて満足に動けない。
 まずい。三度その言葉が脳裏をよぎった瞬間、高尾は思いきり腕を突っ張らせて緑間を押しやっていた。
「っぷは! はー危なかった」
「……高尾」
「わりいわりい、なんか、くしゃみが出そうになってさ」
 ちらりと壁に目をやれば、でかでかと5を示した時計が視界に入る。やはり、緑間の言ったとおりらしい。これでまた五分間のディープキスのやり直しというわけだ。
「いやーマジごめん、風邪でもひいたんかな?」
 あきらかな嘘をついてへらへら笑う高尾に怒るかと思いきや、緑間は嘆息した。いつもの彼らしくない、深いため息だった。
「常々思っていたのだが、高尾」
「な、なんだよ」
「おまえ、オレとキスをするのが嫌なのか? いつもキスをしていて、ある程度の時間が経つとふざけて中断させるだろう」
「え」
 まさか気づかれていたとは。何と言おうか考えあぐねて視線をさまよわせる高尾を見て、緑間はしょんぼりと――高尾にだけわかるわずかな角度で――眉を下げた。
「……嫌なら無理強いはしないのだよ。ただ、今はここから脱出せねばならん。我慢しろ」
「わっ、ちょ、ちょっと待って! 別に嫌なわけじゃねえって! だから押し倒すのは待てって!」
 決死の覚悟、といった風情で押しかかってきた緑間の体を両手で押しのける。緑間に誤解されたままなのは困る。キスが嫌なわけでは決してないのだ。
「嫌じゃなければ何なのだよ」
「だからえっと、つまり……その……は、恥ずかしいっていうか」
「恥ずかしい? 今さら何を」
「いやなんつうか、その、ほら、ずっとしてるとなんか変な気分になんじゃん? それが苦手っていうか、落ち着かねーっつうか」
「――なるほど」
 薄い唇が弧を描く。めずらしい曲線に見惚れていると、ぐらりと視点が回転した。わあ、と思わず飛び出たまぬけな声は、瞳を光らせた緑間の表情を前にして途切れる。獲物を前にした狼のようなぎらぎらとしたオーラが緑間から放たれていた。
 押し倒された。理解して、肌が粟立つ。
「し、真ちゃん?」
「知らないようなら教えてやる。それは『変な気分』ではなく『欲情している』というのだよ」
「は、えッ!? な、ちょっと真ちゃん、重いって、マジ、動けねえ!」
「黙れ」
 何度目かのやわらかい感触が高尾の言葉を奪う。
 あきらめずにくぐもった抗議の声をあげながら手足をばたつかせるが、いちばん弱い上顎を舌先でつつかれながら両方の手首をつかまれてあえなく撃沈する。緑間が体を伸ばしてうつ伏せで乗っかってきたせいで足の自由もきかなくなってしまい、非常にまずい体勢になってしまった。
 ヤバい。とてもヤバい。こんな体勢でキスなんてされたら、ちょっと自分を抑えられる自信がない。うっかり抱いて、とかなんとか口走ってしまいそうだ。
(……そんなん、ダメなんだって)
 緑間のことは好きだし、キスをするのも好きだ。
 だけど、だからこそ、困るのだ。緑間とのキスを続けていると、自分が自分でなくなりそうで――ふわふわのとろとろに溶けてしまいそうで、それがとても怖い。高尾の覚悟も、決意も、これまでの努力も、すべてが砂糖漬けにされてぐずぐずになってしまいそうな気がする。
 高尾は、緑間の唯一無二の相棒でいたいのだ。もちろん恋人になれたことはうれしいけれど、緑間にすべてを委ねて愛され、ふにゃふにゃと甘える愛玩動物になることを望んでいるわけではない。背中を預けあう、対等で公平な関係。それが高尾の理想だ。
 だけどキスをしていてこみあげてくるのは、そんな理想とは全然種類のちがう欲望だ。緑間にいろんなところをくまなくさわられて、舐められて、擦られて、わけがわからなくなるくらいめちゃくちゃにされたいと思ってしまう己の、男らしいとはあまり言えない欲求。理想を粉々に打ち砕くような、破滅的な甘い衝動。それが高尾には何よりも怖い。
 そんなものが自分の内にあるなんて認めるわけにはいかない。すくなくとも、高校バスケ日本一の座を手にするまでは、絶対に。
 緑間の舌が口の中で暴れまわる。ときおり息継ぎのためにすこしだけ唇が離れる瞬間が逆にいたたまれない気持ちにさせられる。もはや今の高尾には、目をぎゅっとつぶってなるべく何も考えないよう努めることしかできない。
 五分、たったの五分だ。それさえ乗り切ればきっとここから出られる。そうしたらバスケができる。緑間と、秀徳の仲間と、日本一をめざすために切磋琢磨できる。
 バスケバスケバスケ。念仏のように心の中で唱えていると、緑間が高尾の肩をつかんでいた手をふいに下げた。軽々とボールをつかむ大きな手のひらがゆっくりと高尾の背中をたどり、腰に到達する。長い指が腰骨をなぞったのを感じて、体が勝手にびくんと跳ねた。
(ちょ、まさか)
 経験がさほどなくとも、緑間の動きが何を意味しているのかわかってしまう。身をよじった高尾を咎めるように指がさらに下に移動し、ふだん人にさわられることなどほとんどない尻に到達する。
 手のひらで円を描くように撫でられ、ぞくぞくと背筋がふるえた。やめろ、と言おうとして顔をのけぞらせると緑間が目を開けた。いつもより濃く見える緑色が鋭い光を弾いて高尾を射抜く。
 『今しゃべったらまた最初からになるのだよ』――視線から読み取れた言葉に、視線を動かして時計を見る。表示は『3:57』。まだ、たったそれだけの時間しか経っていない。
(ちくしょう……!)
 このままだと本当にまずいことになる。遠慮を忘れていく緑間の手の動きを止めさせたい。でかすぎる体を跳ねのけてしまいたい。だけど、そうしたらまた五分もの間ディープキスをしつづけなくてはならない。それはそれで、やっぱりまずい。つまり高尾には、もう打つ手がない。
 高尾の焦りを感じたのか、緑間がふっ、と笑う気配がした。口の中に吸い込まれていく笑いの呼気が憎らしい。殴りつけてやりたいけれど、両手はがっちりと抑え込まれている。
 このままふやけたコーンフレークのようになってしまうしかないのだろうか。それは嫌だ。押し倒されてキスされてあちこちさわられて、高尾だけがふにゃふにゃになるなんて絶対にごめんだ。
 じゅる、と音を立てて口内を這いまわる舌の動きに意識をもっていかれそうになりながら、高尾は現状を打破する方法を必死に考える。
 
 ――キスをやめてもやめなくてもヤバいなら、いっそのこと。
 
 かろうじて動かせる腰をぐっと持ち上げ、緑間の下腹部に強く押しつける。
「な……ッ!」
 驚いた緑間が反射的に体を起こす。唾液にまみれた唇と唇が離れて外気にふれ、ひやりとした。
 シャツの袖で口元を拭いながら、高尾はせいいっぱいにやりと笑ってみせた。腰をぶつけて返ってきたのは想像どおりの硬い感触だったから、ちょっと愉快な気持ちになっていた。
 緑間とキスをして、あまり歓迎していない欲望や衝動が生まれてしまうのは、もうしかたがない。高尾自身にもどうしようもないことだ。そして、今の状況ではキスをやめるわけにもいかない。
 ならば、緑間も同じところに引きずりおろしてやればいい。緑間もふにゃふにゃになってとろとろに溶けてしまえば、対等の関係は維持されるはずだ。
「あーあ、口離しちゃダメじゃん真ちゃん。また最初っからになっちまったぜ? そんなにべろちゅーしてーの? キスだけでそんなバキバキにしちゃってんのに大丈夫?」
 形の良い緑色の眉がぴくりと跳ねる。
 緑間は本当にわかりやすいし、ちょろい。こうも簡単に挑発に乗ってしまわれると逆に少し心配になるほどだ。
「――高尾」
 緑間がわずかに口角を上げる。それは、試合をしていて相手が思いのほか強かったときの表情によく似ていた。
「そうは言っているが、おまえのほうこそ」
 緑間の長い腕が高尾の股間に伸びる。手のひらでぐっと抑え込まれてうめき声が漏れた。痛みではなく、快感で。
「ずいぶん苦しそうなのだよ。いつからこんなにしていた」
「……真ちゃんが勃ててっからつられたんじゃね?」
「ほう」
 ばちばちと火花が散る。
 さらに挑発してやろうと高尾が口を開くと、それを防ぐように緑間が唇を重ねてきた。
 さっきのように体の自由を封じられないよう、すばやく抱きついて全体重をかけて押し倒す。膝で硬くなったものをぐりぐりと刺激しながら緑間の口の中を舐めまわしていると、尻を撫でられた。全身を駆け巡る感情にまかせて緑間の学ランのボタンに手をかけると、かちゃりという音と共にベルトが引っ張られる感触がする。
 うっすらと目を開けると緑間の瞳にぶつかる。『やってくれんじゃん』『おまえこそ、早々に音をあげるなよ』そんなアイコンタクトを交わしてふたりは互いの服を脱がしにかかる。
「……は、いきなりちんこさわるとか情緒が足りねえんじゃね?」
「これだけ先走りでびしょびしょにしておいて何をふざけたことを」
「真ちゃんのだってそうじゃん、ほら、漏らしたみてえになってる」
「……調子に乗るのもそのくらいにしておくのだよ」
 
 五分間ディープキスをしないとここからは出られません。
 本来の目的を忘れ去ったふたりが部屋から出るには、相当な時間を必要とするのだった。

 

 


2016.9.27