パスワード0610

 おかしい。
 どう考えてもおかしい。
 腕組みをして眉間に皺を寄せ、緑間真太郎は考える。議題はもちろん——シンプルな信条で生きる緑間が頭を悩ませる事項などひとつしかない——相棒兼恋人兼伴侶、高尾のことだ。
(オレに隠しごと、など)
 良く言えばおおらか、悪く言えば雑な高尾は、だいたいのことにおいては隠し立てしない。もっとも、それは緑間に全幅の信頼を置いているからで、そうなるまでに紆余曲折悲喜こもごもあったのだが、それは今はどうでもいい。目下の問題は、さまざまな事柄を経ておおらかで雑になり、無駄に本心を隠さなくなったはずの高尾が、最近何かを隠しているらしいことだ。
 出しっぱなし開きっぱなしだったパソコンに、パスワードロックがかけられるようになった。ちょっとトイレに行くのにもスマホを手放さないようになった。「早くふたりでいちゃいちゃしてーから」と寄り道せずに帰宅していたのに、帰りが遅くなった。
 さすがに緑間にも疑念が生まれる。そう、つまり、浮気の。
(ありえないのだよ……)
 緑間には自信がある。高尾に愛されているという自信、ふたりの絆が確かなものであるという自信、自分より高尾を愛する人間などいないという自信が。高尾もそれをわかっている。会社の飲み会にかわいい新人がきて盛り上がっただの上司にキャバクラに連れていかれて疲れただのという報告を緑間にしていたのがその証拠だ。
 だからこそ、最近のふるまいには納得がいかない。浮気など起こり得ないと信じているが、ならば、なぜ、こそこそするような真似をしているのだろう。
(オレに思いつかん理由があるのだよ……そう、きっと、あまりにも素っ頓狂で突飛な、常識を超えた理由が)
 きっとそうだ。そうに違いない。
 だから、これはそれを突き止めるための行為なのだ。断じて、浮気を確かめるためなどではない。
 ひとつ息をして、高尾のパソコンを立ち上げる。小憎らしいパスワード入力画面に数字を四つ、打ち込む。実際に試すのは初めてだが、高尾の設定しそうなパスワードなど見当がついている。
 果たしてあっさりとパスワードは解除され、デスクトップ画面に切り替わる。壁紙ははるか昔に死ぬ思いで勝ちとった優勝トロフィーとメダルの写真で、つい目を細める。緑間にとって大切な思い出を、高尾も同じように大切にしてくれている。
 マウスを動かし、クロームを立ち上げる。浮気調査の鉄則、それは検索履歴だ。そこには高尾の思考の軌道がくっきりと残されているはずだ。
 人気のラブホテルとか、女性へのプレゼントにおすすめのアクセサリーなんかが出てきたら。ちらりとそんなことを思う。もよもよと込み上げる不安を馬鹿馬鹿しいと飲み込んで、緑間は検索履歴を表示させた。
(これ、は……)
「あー!!」
 背後から大声。声の主は、もちろん恋人だ。
「ちょ、緑間、なに、おま、人のパソコン」
「……高尾」
 謝るべき状況だったが、それどころではなかった。だが緑間以上に高尾がそれどころではなさそうで、目を白黒させたり顔を赤くさせたりしている。なかなかに見ものだったが、緑間にもからかう余裕はない。
「これは」
「あー! もー! 何見てくれちゃってんだよもー! あー! もー!」
「崩れ落ちるまえに説明しろ」
「あー……もー……クッソ、てめー……マジふざけんなよー……」
 ずるずると床にへたりこむ高尾をじっと見つめる。ショックを受けているのは理解しているが、それはそれとして絶対に説明させるつもりだった。
 沈黙が降りても、高尾がぴくりとも動かなくなっても、緑間は待った。機を待つのには慣れている。
「……あの、さあ」とうとう高尾が観念する。「告白って、おまえからだったじゃん?」
「ああ」
「同棲の申し出も、おまえからだったじゃん?」
「そうだな」
「おまえばっか、決めてんじゃん。そんなんおもしろくねーっていうか……」
「そうだったのか」
「そーなの! だから、いっちばんオイシイとこもってこーと思って、もうすぐおまえの誕生日だしって、もー! ちくしょー!」
 わしゃわしゃと髪の毛をかき乱して高尾は再び沈黙する。
 じわじわと、緑間の心中に込み上げてきたのは笑いたいような泣きたいような、妙な感情だった。
「……ふ」
「アッ! 笑った! 笑ったな! てめーもー許さねー! 人がせっかく人事つくそーとしてんのに!」
 もうやだ真ちゃんなんか、別れてやる。ぶつぶつと吐かれる不穏な言葉は、もうどうやっても照れ隠しでしかない。
「それは困るのだよ。せっかく誕生日にプロポーズしてもらえるところだったのに」
「……」
「感動的なプロポーズのエピソードやセリフ、か。ああ、もしかして最近帰りが遅いのはどこかに下見にでも行っていたのか?」
「あーそーです! 真ちゃんが初デートの場所調べまくったみてーにな! 初エッチのシチュエーション調べまくったみてーにな!」
「昔の話をするな」
「うるせーうるせー。なんだよ、なんでオレのパソコンのパスワード知ってんだよ……」
 しょぼくれてしまった黒い頭が愛おしい。緑間はしゃがんだままの高尾をむりやり抱き上げた。そのままきつく抱きしめて唇を奪う。これでも感動しているのだ。このくらいは許されたい。
「……簡単な推理なのだよ。おまえは案外記念日を大切にするからな」
 ますます高尾はふくれっつらになる。本当にバカなやつめ、ととうとう緑間は声を上げて笑った。まさか緑間が、この緑間真太郎が、交際記念日を忘れると思っているのだろうか。
「誕生日、楽しみにしている」
 つんと尖った唇にキスをしてささやくと、今に見てろよと子どもみたいな返事が返ってくる。もう一度、笑い声をあげながら緑間は恋人を思いきり抱きしめた。

 

 

 


2019.6.10

浮気調査でpC見るのはどうなんだ…と読み返して思っちゃいましたが緑間さん謝罪したと思います