それは唐突にやってくる。
「高尾」
鼻歌まじりに夕飯を作っていたら、玄関の方から声がした。包丁を動かす手を止めて、あれ、と思う。やけに早い。オレの会社は毎週水曜はノー残業デーだから水曜は絶対に早く帰れるけれど、緑間の会社にはそんなもんはないらしい。仕事が立て込んできたら終電も当たり前だし、ひどいときは土日も出勤していく。ちょうど今そんな時期に差し掛かっているらしくて、今日も戦場に赴く兵士みたいな顔で出かけていったのに。
「真ちゃん? おかえり、っつか早くね? どした? もしや具合悪い?」
「……高尾」
慌てて台所を出て玄関に向かう。朝と同じダークグレーのスーツを着た緑間は、完璧な無表情だった。
「お」
これは。
「たかお」
オレを呼ぶ声がひらがなっぽい。
キターー! と叫び出したくなるのをぐっとこらえて、「真ちゃん」とうんと優しい声を出してみる。せっかくのチャンス、棒に振るようなバカな真似はしない。
「な、とりあえず手洗ってうがいしな?」
「たかお」
自動応答のような返事に、困ったなと思いながらも顔がにやける。困ったな、これは結構重症っぽいぞ。
ダッシュで台所にもどって鍋の火を止め、つくりかけのサラダをボウルごと冷蔵庫に突っ込む。真ちゃんも腹が減ってるだろうし早くメシにしたいところだけど、今はすべて後回しだ。だってせっかくのスーパーミラクルボーナスタイムなんだから。
「ほら、真ちゃん」
かろうじて靴は脱いでいた緑間の手を引き、洗面所まで連れていく。蛇口をひねって水を出してやるとのろのろと手を洗い出すので黙って見守ってやる。まるで子どもだ、そう思うとにやにやが止まらない。いつもうがい手洗いはちゃんとしろと口うるさく言われてるのはオレのほうなのに。
「たかお」
「はいはい、着替えな」
緑間をリビングに連れていき、着替えを持ってきてやる。この前買ったばっかりの、あったかくてやわらかい素材のスウェット。なんだかおじさんくさいのだよなんて文句を言ってたけど、ホントは結構気に入ってるのをオレはちゃんとわかっている。
着ている人間と同じくらいくたびれたスーツを脱がし、シャツのボタンを外してやり、ベルトをゆるめる。その間、緑間は黙ってじっとしている。んっふふ、たのしい。すっごく楽しい。
スウェットを着させてやると、緑間はどっかりとソファに座って無言で両手を広げた。このあたりでもうオレの我慢は限界で、うっかり満面の笑みを浮かべてしまう。
「んひ」
限界までこらえた笑いが漏れて変な声になる。広げた腕の中に飛び込んで思いっきり頬ずりしてやった。やわらかくてすごいきもちいい。やっぱりこのスウェット買ってよかった。
「ひひ、しーんちゃん」
あんまり楽しいから鼻の頭にちゅっとキスをしてやる。こんなに楽しいオレとは裏腹に、真ちゃんは正反対の不機嫌そうな表情で眉をひそめる。
「そこじゃないのだよ」
「ぶっは!」
ご要望どおり、今度は唇に軽くキスを贈る。ひんやり冷たい唇からはほんのりうがい薬の味がした。
まったく、キスしたかったら自分からすればいいのに、ホントかわいい。スーパーミラクルボーナスタイム中の緑間はとんだ甘ったれになってしまうからオレは心底嬉しくなる。だって、あの緑間がこんなんになるとか、誰も予想しないだろ。真ちゃんのご両親ですら「あの子は小さな頃から甘えるのが下手で」なーんて心配そうに言ってたくらいなんだぜ。
「たかお」
「はいはい」
キスが足りなかったらしい緑間に催促され、何度もふれるだけのキスをする。しばらくしてようやく満足したのか、緑間の腕が背中に回され、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。真ちゃんママ、全然心配いらないです。真ちゃんはいい歳してこんなにしっかり甘えんぼです。オレ限定だけど。へへん、この優越感。マジでたまんねえ。
「うひひ」
「……おまえは、オレが疲れて帰ってくると、いつもうれしそうなのだよ……」
「うん、真ちゃんがふにゃふにゃになるから」
本当のことを教えてやったのに、緑間はなぜか呆れたような顔をする。ふふん、どうせ世話を焼くのが楽しいなど変わっているとかなんとか考えてるんだろうけど、ひとりだけ常識人ぶったって無駄だ。世話を焼かせて楽しんでるのはおまえなんだかんな。
きちんとセットしてある緑の髪をくしゃくしゃにかきまわす。この頭、今日はオレがきれーに洗ってドライヤーで乾かしてツヤッツヤにしてやるからな。
「……他のやつには」
「うん?」
「いうな……」
唐突な一言に思わず髪をかきまわす手を止める。緑間の言葉を咀嚼して理解するのには、ちょっとだけ時間がかかった。
「…………ブッッハ!!」
「笑いごとではないのだよ」
いや笑うとこだろ。ときどき緑間がこんなふうにでろでろに甘えるようになったのなんてもう何年も前からだし、だいたいこんなこと人に言うわけない。……いや、でも、緑間がこんなにもオレのもんなんですってのはちょっと言いたいかも。いや、だいぶ、言いたいかも。
「たかお」
「ぶふ、うぐぐ、ぐふ、ひゃ、い、言わねーよ……ひひ、うひゃ」
言いたいけど、それで緑間の機嫌を損ねるのもつまらない。恋人にはでれでれに甘えてますってのが恥ずかしいってのもまあわかるし、言わないでおいてやろう。
約束、と言って小さな子どもにするみたいに頭を撫でる。それでオレの真心は伝わったらしく、緑間の体からくにゃりと力が抜けた。
「……腹が、減ったのだよ」
「おー。今日はクリームシチューにサラダでっす」
「おしるこ……」
「それはメシじゃねーだろ。わかってるよ、あとでおしるこも作るって。心配すんなよ、今日はオレがぜーんぶちゃんとやってやるから。メシ食ってー、風呂入ってー、なんなら真ちゃんのしゃぶって勃たせてオレが上に乗っかってやってもいーし?」
冗談めかしてそう言うと、黒いメガネの奥で緑の瞳がきらりと光った。
「それはオレがするのだよ」
「うっひゃ、おまえ全然元気じゃねーか」
「元気などない、もうオレは疲労困憊で立ち上がれないほどなのだよ……」
「はいはい」
そんなこと言ってるけど、明日になったら緑間はいつもどおり背筋を伸ばし、颯爽と出社することをオレは知っている。
だから今夜は、うーんと甘やかす。オレだけの真ちゃんになってもらう。
スーパーミラクルボーナスタイムを心ゆくまで満喫するのだ。
2022.11.20
webオンリー「高尾とバースデーケーキを食べるのだよ!!」無配