ゆめみるころをすぎても

 指をのばす。ずっとふれることをためらっていたうつくしい彼の指先は、わずかに水を帯びて自身の顔を覆っていた。そっと指先同士をからませる。ほんの少しだけ力をこめると、かたくなに見えた指はあっさりと力を失い、かくしていた顔をあらわにした。いつだって強い意志を秘めてきらめく緑の瞳に薄い膜が張られているのを見て、唇の端が勝手に吊り上がる。本当は泣き出してしまいたいような気持ちを抱えているくせに、何よりも先に笑みが飛び出てしまう自分の性分は本当に困ったものだと思う。だけど今はそれも気にならない。だって、目の前にいる彼は、高尾の笑みの奥にあるものが何なのかをきちんと知っているのだから。
「……は、真ちゃん、泣いてんの?」
 からかって茶化してしまうのも高尾の困った癖のひとつだ。緑間はフンと眉を寄せて怒りを示してみせるけれど、形ばかりのやりとりには何の効力もない。今、ふたりのあいだをつないでいるものにからかいや怒りなどという感情はどうやったって不釣合いだった。
 緑間の手を離し、長いまつげが彩る目じりに指を移動させる。いつも目元をかくしている黒くていかついフレームは今はそこにはなく、たやすくふれることができてしまう。白くてうすい目元の皮膚は指先と同じように少しだけ濡れていて、やっぱ泣いてんじゃん、なんてまたからかってしまう。
「…………ごめん」
 緑間を泣かせたのは、ほかでもない高尾自身だ。
 ずっと、足踏みをしていた。互いに互いへの感情がどういったものであるか自覚し、また相手が自分と同じであることを気づいていながら、知らないふりをしていた。とても正しいことには思われなかった。相棒に、チームメイトに、同性に、抱いていい感情だと思えなかった。だからそっと消滅させるつもりでいた。気のせい。錯覚。一過性の病気。あまりにも一緒にいすぎたせいで、何かを取りちがえてしまっただけ。そう言い聞かせて、慎重に距離を置いて。
 だけどもうそんなことは終わりにするのだ。どれだけ遠くに行って心を離そうとしたって、何も変わりはしなかった。いつまでたっても緑間のことが愛おしくてならないし、顔を見ればうれしいし、この気持ちが特別だと確信するばかりだ。
 どうすればいいのかなんてわからない。答えが出ないのだったらもう、いっそのこと。
 もう片方の手ものばして、緑間の頬を包み込む。すべらかな感触に胸の奥が熱くなった。
「オレ、ずっとはぐらかして、ズルかったよな。でももうそんなことしねぇから」
「……なんのことだ」
「だから真ちゃんももう言って。オレのこと、好きだろ?」
 深い緑をのぞきこみながら言うと、瞳が迷うように揺れた。
「……オレも言え、というが、お前は何も言っていないのだよ」
 そうきたか。思わず笑ってしまった。直球勝負を好み、まわりくどい駆け引きなんて知らないとでも言いたげに突き進むことばかりだった緑間も、年月を重ねてこんなことを言うようになった。駆け引きを身につけ、相手の出方を窺って手札を切ることを覚え、そう、少しズルくなった。
 だけど、そんなところも愛おしい。全面降伏を示すように両手を大きく広げてから、高尾は勢いよく緑間の体を抱きしめた。ズルも駆け引きも自分の得意とするところだったけれど、今はそんなことをするつもりはこれっぽっちもない。すべてを、惜しみなく、丸ごと緑間にくれてやりたかった。
「真ちゃんが大好き。特別な意味で」
 泣かせるのではなく、包んでやりたい。どこまでも前を見て生きる緑間がつまづいたりしないように、その足元を照らしてやりたい。不器用でまっすぐな彼が不安定な道を進むことで傷つくことばかり危惧していたけれど、そうなったら高尾が歩きやすいように支えてやればいいのだ。そう思えるまで、こんなに時間がかかってしまった。
 腕の中で緑間の体が弛緩するのがわかった。は、と肩口にかかる息が熱い。愛おしさが爆発するようにこみあげてきて、抱きしめる腕に力をこめた。
「ずっと一緒にいたい」
 あのころのように、無邪気に笑うことができなくても。きっとこの先、つらい思いをすることになっても。
「もう、泣かせたり迷わせたりしねぇから。真ちゃんの隣は譲りたくない」
 体を離して瞳を合わせる。さっきよりも水気を増した瞳に激情をかきたてられて、唇をふさいだ。長いあいだ焦がれていた唇は熱く、やわらかく、高尾の心をしめつける。頬に濡れた感触が伝わってきて、緑間がついに涙をこぼしたのかと思っていたら目じりを拭われた。それで自分も泣いていたことを知る。
「……随分と遠回りをしたのだよ」
「うん。でも、たぶん、真ちゃんとこうなるのに、必要だった」
 緑間の胸に頭を預けると、鼓動の音が聞こえた。とくとくとく、と速い音を刻むそれを聞いてじんわりと全身に満ちるのは深い安らぎとよろこびだ。高尾の鼓動もきっと同じくらいの速度で駆けていて、お揃いなのがどうしようもなくうれしい。
「真ちゃんの答え、聞かせて」
「……言うまでもないだろう。オレはずっとお前のことが――」
 高尾の手に手を重ね、好きだったのだよと告げる声はかぼそかったけれど、高尾にはじゅうぶんだった。大きな手のひらはとてもあたたかい。不器用な言葉と熱が高尾の心を幸福で満たした。
「ありがと、真ちゃん。……愛してる」
 もう一度キスをするためにつまさきを精いっぱいのばして瞳を閉じる。瞼を閉じたつかのま、おだやかに相手を愛せる未来が光になって、ちかりとまたたいた気がした。

 


2017.不明