校舎を出ると、二月の空は早くも暮れかけていた。
右横で冷たい風に揺られている蜂蜜色の髪をそっと見つめる。はじめて会った日――バスケ部の体験入部の日だった――染めているのかと尋ねたら、宮地はものすごく嫌そうな顔をしたことを思い出す。あのときの表情はちょっと忘れられないな、とおかしくなった。
大坪にとって、この三年間でいちばん一緒に帰宅した相手は宮地だった。卒業まであと一か月、こうやって共に帰路につけるのもあと数えるほどしかない。そう思うと、胸はすこしだけちくちくと痛んだ。
一日のうちのほんの数十分、その中でいろいろなことがあった。部活中は私語を交わす余裕などなかったから、宮地と距離を縮められたのは帰宅時間のおかげといっても過言ではない。
たくさんの話をした。たいていはバスケや部活の話題で、他には宮地の好きなアイドルの話、テストや課題の話、言い争いもごくたまに。他人からみれば他愛のない会話でひとくくりにしてしまえるようなものばかりだけど、どれもすべて大坪にとって大切にとっておきたい思い出だ。
いつのまに、こんなに好きになったのだろう。三年間、ひたすらにバスケに打ち込むだけの日々を送っていたはずなのに、気がつけばすっかり宮地に恋をしている。何を見ても宮地に思いを馳せるし、気がつけば宮地のことを考えている。恋心はもはや大坪の心にどっしりと根をおろし、ありとあらゆる感情に棲みついてしまっている。そしてそれは、案外悪くない。
「……んだよ、何見てんだよ」
大坪の視線に気づいた宮地が不服そうに唇を尖らせる。白くてきめの細かそうな頬が赤くなっているのは、たぶん寒さのせいだけではない。そのことにうっかり頬をゆるませてしまうと、ますます宮地の表情は険しくなった。
「すまん」
そう言ったものの、浮かんだ笑みはなかなか消えない。ただの照れ隠しなのは知っているし、宮地もすくなからず自分と同じようなことを考えてくれていたのだとわかってしまったから。
宮地も同じ気持ちでいてくれると気づいたのは、いつだっただろう。大坪は宮地が好きだし、宮地は大坪が好き。それは木々が日を浴びて枝を伸ばしていくような自然さで日常に溶け込み、大坪の一部になった。失うことなど考えられないし、手放すつもりもない。好きな人に好きになってもらうこと、それがどれほど奇跡的なことなのか大坪にもわかっている。もとより彼はアイドル――かわいい女の子が好きだ。その対極にいるような自分を好いてくれるたのは、天文的な確率の奇跡だとしか考えられない。
すべては秀徳バスケ部にいたおかげだ。あんなにも濃密な時間を一緒に過ごせたから、きっと特別な意味で心を通わせることができた。本当に秀徳高校にいられて幸運だった。そこまで考えて、大坪はちょっと苦笑した。卒業を目前に感傷的になっている自覚があるが、あまり自分には似合わない。
「あー……寒い」
ず、と鼻をすすりながらぼやく声に我に返る。そういえば校舎を出てほとんど会話を交わしていなかった。大坪が物思いに浸っているあいだ、宮地はずっと会話の糸口を探していたのかもしれない。
寒いという言葉を証明するように、宮地の鼻はわずかに赤くなっている。秀徳バスケ部でも指折りのイケメンといわれる思い人は横顔も美しい。すっと通った鼻筋を見つめながら、ちがう形で出会ってもオレは宮地に恋をしただろうな、と大坪は思った。
「なかなか暖かくならんな。もう受験は終わったとはいえ、風邪はひくなよ」
「へいへい、キャプテン」
「オレはもうキャプテンじゃない」
「わかってる。でも、キャプテンやめても大坪のそのおかんみてーなの、変わらねえのな」
くつくつと宮地が笑うからつられて微笑む。妹がいるせいか、もともと世話焼きな性格なのだ。でもそれは宮地だって同じだろう。口は悪いし態度もきついが、下級生にあれやこれやと細やかに指導していたのは宮地のほうだ。大坪から見れば、三年の中でもものすごく世話焼きだし後輩思いの部員だった。当の本人と後輩たちは、そう思っていないかもしれないが。
「しかしほんっと寒い。なあ大坪、セーター編んでくれよ」
「セーター?」
「得意だろ、編み物。カーディガンでもいいな。気に入ったやつでオレが着れるサイズで、なおかつ安いのってなかなかないからさ。大坪が編むんなら色とかサイズとか好きなのにできるじゃん?」
いいアイディアだろと言わんばかりにうれしそうな視線を向けられ、しばし言葉を失ってしまう。白い息を吐きだしながら、大坪はしみじみとつぶやいた。
「宮地は変わっている」
「あ? なんだそれ。全然変わってねーし。変っつーのは緑間みたいなのを指すだろが」
生意気な後輩の名前を出しながら宮地は思いきり顔をしかめた。その表情もかわいいな、と思うが口には出さない。好きだとか、かわいいとか、そういう気持ちを宮地に伝えたことはまだ一度もない。バスケにすべてを賭けているうちはチームメイトとしての関係を崩さない、という暗黙の了解がふたりのあいだにはあった。
いざ部活を引退してみたらすぐに受験が待ち構えていたために、なし崩しに暗黙の了解は現在まで続行されている。問題は、それをいつ終わらせるかだ。
「緑間は確かに変わっているが」
「あれと一緒にすんな」
「一緒にしたつもりは……ああ、だが、似ていなくはないな」
努力家なところとか、自分にも他人にも厳しいところとか。美点を指摘したつもりでそう言ったのに、宮地はますます嫌そうな顔をした。形のいい眉がぎゅうっと寄せられ、唇が思いきりへの字になる。子どもみたいで、かわいい。
「……ふ」
「おい! 笑うな」
「いやすまん、入学してすぐのころを思い出した。髪を染めてるのかと言ったとき」
「あー、それ死ぬほど言われてっからな。またかって思ったんだよ。そーだ、そんときおまえのこと変なヤツって思ったんだよな」
「オレを? どうして」
「染めてないって言ったらさ、めちゃくちゃ神妙に謝罪してきたじゃん? そんなヤツいなかったからさ。そうだよ、大坪だって変じゃん」
言いながら宮地は上体を反らした。やけに得意げな様子もまたかわいい。
「そうか? オレにはあまり、なんというか緑間のような強烈な個性というようなものはないと思うが……」
「はー? 何言ってんだよ。神妙謝罪もだけど、オレの趣味に興味ねーくせに真剣につきあうとことか、変だって」
「興味がないわけでは……。それに、宮地の言うとおり彼女たちは曲もいいし、ライブもすごく楽しいし」
「だからそーゆーとこ。なんつーの、普通バカにしてくるとこを真剣にとっちゃうとこ?」
「それを言うなら宮地も同じだろう。オレみたいなガタイのいい男が編み物をしていても笑わない」
「笑うとこかそれ?」
「だから、そういうところだ」
真似をして返すと、宮地は唇を尖らせたまま黙り込んだ。部活中はいつでも凛とした態度を崩さない男の、こういう幼い表情が大坪は好きだった。無防備だし自分に気をゆるしている感じがするし、何しろ抜群にかわいい。
「……もうすぐ卒業だな」
話題を変えると、形のいい丸い目がきょとんと瞬く。ああ、かわいい。
「そーだな。なんだよ、それで今日おとなしいのかよ。なんでヘコんでんのかと思ってたぜ」
「なんで」
「わかるっつのそんなん。ばーか」
思わず自分の顔を撫でさする。表に出していないつもりだった感傷が宮地には伝わっていたらしい。恥ずかしいが、反面すこしうれしいような気もしてむずがゆい心地だ。何がおかしかったのか、宮地が笑い声をあげた。
「大坪でも卒業さみしいとかあるんだな」
「さみしいというか……それよりも、秀徳に来れてよかったという気持ちだな」
「へー。優勝はできなかったけどな」
「それは、正直心残りではあるが。……おまえと、今のような関係になれたのは、秀徳バスケ部に入ったおかげだなと」
暗黙の了解を終わらせよう。そのつもりで放った一言だった。宮地がどういう反応を示すのか、内心固唾を飲んでいると、予想に反して宮地は嫌そうな顔をした。
「なんだよそれ」
「は……?」
「仮に全然ちがうとこで出会ってたとしても、オレはおまえと……。……今のような感じだったと思うけどな! 舐めんな。轢くぞ」
言い捨てた宮地の耳が赤い。大坪は思わず足を止めて、今の言葉を反芻する。
別の場所で出会ったとしても。
それは。それはつまり。
「おい、大坪。何ボケっと……」
「――ちがう場所で出会っても、オレはおまえを好きになった。オレはさっきそう考えていた」
宮地が言ったのも、きっと同じ意味だ。確信を胸にそう返すと、宮地はおどろいたように振り返ったままのポーズで動きを止めた。端正な顔がみるみるうちにさっきの比ではないくらい赤く染まっていく。
「な、な、何言って、おまえ」
「宮地」
逃げようと身を引く宮地の腕をつかんで引き寄せる。今、大坪は暗黙の了解を崩した。宮地もそれを受け入れたのだ。だったらもう、心の中に溢れんばかりになっている、熱い感情を抑えておく必要などどこにもない。
すばやく周囲を確認する。この角を曲がると大通りになり、車も人も往来が増える。今しかない。
「おまえも、そう思っていてくれているということでいいんだな?」
かがみこんでそっと秘密を囁くように告げる。困ったように口をつぐんでいた宮地の頭が、かすかに縦に揺れた。
「……そうか。なら、いいか?」
さらに背をかがめ、顔を近づけていく。その行動の意図を察したのか、宮地は目をまんまるにして硬直した。
「かわいい」
「ま、まて、ここ、外だし……!」
「待てない」
もう、三年も待ったのだ。
何度思い描いたかわからない宮地の唇は、想像などはるかに超えてやわらかく、すこし冷たかった。
2022.4.8