どこにあるのだよ!

 ない。
 カバンの前ポケットを凝視する。何度見ても、どれだけ見つめても、確かにそこにあったふくらみが消え失せている。
 ない。
 何度ポケットの中を探ってみても、なんの感触も返ってこない。もともとそこは普段はあまり使っていない場所で、物が入っていることのほうがすくない。しかし、今日だけはとても大切なものが入っていたのだ。
 
(どこにいったのだよ……!)
 
 今日、ポケットにあれを入れてから現在――朝練を終えて教室に向かおうとするまでの一連の行動が脳内を駆けめぐる。
 どこだ。どこで、オレはあれを。
 
「行こーぜ真ちゃん。……っておい、真ちゃん!? どこ行くんだよ!」
 
 背後で叫ぶ高尾はひとまず無視することにして、緑間は駆け出す。
 事は一刻を争う。あれを見つけ出すまで、とてもじゃないが冷静になることなどできない。これから始まるホームルームや授業なんてどうでもいい。
 胸を蹴飛ばす不安と焦燥に突き動かされ、ひたすらに緑間は走った。
 一生の不覚としか言いようがない。恋人からもらったチョコレートを、落としてしまうなんて。
 
 バレンタイン。
 恋する者なら誰もがそわそわしてしまうこの日を、緑間真太郎はいつも以上に気合いを入れて迎えた。
 やれることを全力でやり、何事にも万全を期す。手抜きはしない。それを成し遂げた者だけが、最良の運命を手にする権利を得る。
 幼いころからの信条に反した覚えは今まで一度もないけれど、いつもよりいっそう入念に、最善を尽くす覚悟で、全身全霊を込めてこの日を迎える準備をしてきた。何せ、緑間が恋人と思いが通じあわせてつきあいはじめたのは、ほんの1か月前なのだ。初めての恋人らしいイベントを失敗するわけにはいかなかった。
 まず、緑間はチョコレートについて子細な下調べをおこなった。
 必要なのは、恋人の好みに合いそうでかつあまり高額でない(5万円の猿の置物を受け取ってもらえなかったことを忘れていない)ものだ。そして条件に合うものをいくつかピックアップし、実際にデパートで試食をして味を確認した。男性かつ長身の緑間が女性がひしめく売り場に混ざるのは非常に目立ったけれど、そんなことを気にしていては人事を尽くせない。好奇の視線にさらされながら緑間はピックアップしたものをすべて試食し、もっともふさわしいと思えるチョコレートを購入した。
 次に緑間がおこなったのは、チョコレートを渡すのに効果的なシチュエーションについての検証だ。
 さまざまな映画や本を参考にした結果、「夕暮れどき」がもっともロマンチックではないかと考えたが、あいにく夕方は部活の真っ最中で渡せそうにない。第二候補として挙げた「別れぎわ」も、何かアクシデントがあった場合、渡せずに一日が終わってしまう危険がある。諸々の可能性を考慮し、何日も思案をかさね、顔を合わせてすぐ渡すのがベストだという結論を出した。
 渡すときのシミュレーションも抜かりない。恋人同士、という関係に緑間はまだあまり慣れていない。へたに気取ったことをして失敗するより、いつもどおりの態度で渡すのがいちばんいいはずだ(それならきっと高尾に爆笑されることもないだろう)。
 人事は尽くした。
 そうして迎えたのが、今日だったのだ。
 
「高尾、受け取れ」
「へ。……何これ、まさか……チョコ?」
 
 迎えにきた高尾の顔を見るなり、緑間はチョコレートを差し出した。
 つやつやと光沢を放つ包装紙にくるまれてリボンがかけられたそれは、2月14日という日においてはひとつの意味しかもたない。手渡された小さな箱を見て、日ごろから察しのいい緑間の恋人はさっと頬を朱に染めた。
 
「え、うわ、どーしよ、まさか真ちゃんからチョコもらえるとは思ってなかったっていうか……」
「なぜだ。今日は大切な人にチョコレートを贈る日だろう」
 
 あたりまえの事実を告げただけなのに、高尾の頬はますます赤くなる。
 高尾が案外照れ屋らしいということは、つきあいはじめて初めて知ったことのひとつだ。いつもやかましいくらい饒舌な男が橙の瞳を見開いて言葉につまり、耳まで赤くなる様を眺めるのは心がはずむ。それを見られるのは緑間にだけゆるされた権利だと知っているから、なおさらだ。
 今日もその特権をひそかに楽しんでいると、高尾は赤い顔のままごそごそとカバンを漁りはじめた。「ん」と高尾にしてはめずらしくぶっきらぼうな声とともに、赤い箱が差し出される。受験生の験担ぎにも愛用されている、見慣れたパッケージのチョコレート。
 
「……やるよ」
「ああ」
 
 受け取ると、らしくもなくつい顔がほころんでしまった。つきあっているのだからチョコレートをもらえることはわかっていたが、やはり実際受け取るとうれしいものだ。
 表情をひきしめ、カバンの前ポケットにチョコレートの箱を慎重にしまう。高尾からもらう初めてのチョコレートだ。教科書や弁当箱なんかに挟まれてつぶれたり割れてしまうようでは目も当てられない。そう思って、確かに、しっかりと、ポケットの中に赤い箱を入れたのだった。
 
「行くぞ」
 
 時間には余裕があったが、ぼんやりしていると朝練に遅れてしまう。いくら恋人の日といえども、バスケを手抜きすることなどゆるされない。
 颯爽と歩き出した緑間よりワンテンポ遅れて行動を開始した高尾は、いつまでも受け取ったチョコレートをしげしげと眺めている。
 
「真ちゃんこれさあ」
「なんだ」
「めちゃめちゃ高いとか、ねーよな」
「小遣いで買える範疇のものなのだよ」
「おまえの小遣いいくらなんだっつーの。どーせどっかのデパートのとかなんだろ?」
「確かにそうだが、デパートに置いてあるチョコレートの値段は幅広い。いちばん安くて800円、高くてもせいぜい1万までだ」
「へ、くわしーこって」
 
 短く笑い、ようやく高尾はチョコレートをカバンにしまう。
 手の中の包みに視線をもどした瞬間、ふと高尾が浮かべた表情に、緑間の頬はまたゆるみそうになった。今度はよろこびではなく、安堵で。
 
(人事を尽くした甲斐があったのだよ)
 
 熟考に熟考をかさねた結果の行動はただしかったと、高尾の表情が証明してくれた。言葉では言い表せない満足感で胸が満ちる。
 成すべきを成し、望む成果を得られるということはいつでもとても気分がいい。無事にチョコレートを渡せて、高尾からもチョコレートをもらえ、さらに高尾にチョコレートをよろこんでもらえた。これ以上完璧なバレンタインはないだろう。
 学校へ向かう足取りは現在の気分を反映して軽い。
 自身の絶好調を、このとき緑間は確信していた。最良の一日になると信じて疑わなかった。
 それなのに。
 
 勢いよく校門を突っ切って駐車場へ向かう。まもなく始業する時間帯にさしかかっているため、校門前にも駐車場にも教師や生徒の姿はない。しかしその事実も、緑間の足を教室に向かわせる理由にはならなかった。
 教師や父兄の車がずらりと並ぶ駐車場は、本来なら生徒にはあまり縁がない場所だ。しかし緑間と高尾は、自転車とリアカーを連結させた例の乗り物を停めるために利用している。落としたとするなら、リアカーから降りたときがいちばん可能性が高かった。
 肩で息をしながら地面を凝視する。きちんと清掃が行き届いている駐車場に、赤い箱なんて目立つものが落ちていたらすぐにわかるはず。しかし、沈んだ灰色をしたコンクリートの上には、それらしいものは何も落ちていない。植え込みの陰や木の根元、停めてある車の下までくまなく確認したが、どこにもチョコレートの姿はなかった。
 一縷の願いを込めて、最後にリアカーの中をのぞきこむ。だけど今朝緑間がずっと座っていたそこもからっぽで、思わず落胆の息が漏れる。 
 

(……通学中に落としたのではない、ということか?)
 
 高尾からチョコレートをもらったのは、今朝のこと。それからふたりで学校に向かい、部室で着替え、体育館で朝練をした。この過程のどこかで落としたのはまちがいないのだ。
 
(ここでなければ部室に向かう途中か……。いや、今まさにオレはその道を通ってきたのだよ。落ちていれば気づいたはずだ)
 
 残る可能性は、学校に着くまでの道のりだ。家からの距離をたどるとなると、かなり時間がかかるがしかたがない。
 緑間は校門の方角に体を向け――
 
「いた! 真ちゃん!」
 
 ――高尾の声で足を止めた。
「何してんだよ、もうチャイム鳴るぜ」
 
「……ああ」
 
 まさか高尾に「おまえにもらったチョコレートを落としたので探しに行く。授業はサボる」などと言えるわけがない。
 高尾に腕をとられ、内心で歯ぎしりをしながら教室へ向かう。これからの授業はまったく集中できそうになかった。
 
 はあ。
 らしくもなくため息をついてしまう。眼前では教師が黒板を指して懸命に何かを解説しているが、あまり内容が頭に入ってこない。機械的にノートをとりながら、緑間はもう一度ため息をついた。
 心臓が重くて痛い。不透明で粘着質なもやもやとしたものにおおわれたような、始終細かい針でつつかれているような、とにかく最悪の気分だ。高尾に包みを手渡した早朝が遠い昔のことのように感じる。あのときの笑顔を思い出せば、ますます胸が苦しくなった。
 なぜだ。どうして、こんなまぬけなミスを犯してしまったのだ。おは朝占いだって蟹座3位、蠍座4位と悪くない。ラッキーアイテムのハートのついたヘアピンだってきちんと持っていて補正も問題ないはずなのに。
 ああ、もしかしたらヘアピンがひとつでは足りなかったのかもしれない。20本くらい買っておくべきだった。そうすればチョコレートが落ちたことに気づけたかもしれないのに。
 生産性のない自問自答をしているうちにチャイムが鳴り、授業が終わりを告げる。次の授業は化学で、理科室に移動しなければならない。理科室に行くよりもチョコレートを探しに行きたい気持ちを押し殺しながら立ち上がり、前の席に座っている高尾に声をかける。
 
「おい、移動するのだよ」
「え、あ、おう」
 
 考えごとでもしていたのか、どこか気のない返事をして、がたがたと机の中から教科書やノートを引っ張り出す高尾の姿を見て、また胸が痛んだ。
 恋人からの心のこもったチョコレートをなくしてしまったと知ったら、いくら高尾だって怒るだろう。緑間に幻滅するだろう。そう思うと痛む心臓がぎゅっと縮むような心地がした。寿命が減りそうだ。
 理科室へ向かうあいだも、つい地面を見つめてしまう。こんなところにあのチョコレートが落ちているはずがないとわかっているのに、赤い箱を求めて目が勝手に動いてしまう。
 昼休みになったら学校を抜け出してチョコレートを探しに行きたいが、昼休みはいつも高尾と一緒だ。なんと言いつくろって単独行動をとればいいだろうか。勘のするどい高尾をうまくごまかせるだろうか。
 こういう企てをめぐらせるのはあまり得意ではない。自分の落ち度のために高尾に嘘をつくのも気が進まない。何度ついたかわからないため息をつくと、黙って横を歩いていた高尾がふいに口を開いた。
 
「真ちゃん」
「……なんだ」
「昼休みなんだけどさあ。オレ、今日ちょっと用事があって」
「用事?」
「たいした用事じゃねーよ。でもちょっと行かなきゃなんねえから、悪いんだけど昼飯ひとりで食ってくんね?」
「わかったのだよ」
 
 「さみしいかもしんないけど泣くなよ」と笑う高尾に「バカめ」といつもの返答をしつつ、緑間はほっと胸を撫でおろした。運がいい。これで高尾に嘘をつく必要がなくなった。
 なんとしても、高尾のチョコレートを見つけなければ。
 
 校門を出て右に曲がり、ゆるやかな坂をくだったところにある交差点を渡って住宅地を進む。そのあいだも緑間の視線はずっと地面に釘づけで、目を皿のようにするという慣用句を体現することになった。だが、どれだけ目を凝らしてもチョコレートは見つからない。
 携帯を取り出して時刻を確認する。まだ自分の家までたどり着いていないが、そろそろもどらないと授業に間に合わなくなってしまう。
 いっそ午後の授業はサボってしまえばいいのではないか、という考えが脳裏をちらつく。放課後までにもどれば部活には支障がない。けれど、昼休みが終わったら当然高尾は緑間の不在に気づくだろう。そうなったときのうまい言い訳をいまだに緑間は思いつけていない。
 今度は断腸の思いという慣用句を身をもって経験しながら、踵を返す。人事は尽くしたと自分に言い聞かせながら、緑間は重たい足で学校への道をもどりはじめた。
 昼食をとりそこねた空腹感がみじめな気持ちに拍車をかける。気分はどんどん下向いて、緑間をかつてなく弱気にさせていく。
 
(慢心など自分には無縁だと思っていたが、計画がうまくいき、高尾からも無事チョコレートをもらえて浮かれていたのかもしれないな。常々高尾にツメが甘いのだよと言って説教していたが、これではもうあいつのことを笑えないのだよ……)
 
 そもそも、見つけること自体が無謀だったのかもしれない。高尾がくれたチョコレートは、ラッピングもメッセージもない、販売されているままの状態のものだった。道に落ちていても、大切なものだと気づかれずにゴミとして捨てられてしまう可能性が高いのではないだろうか。仮に見つけられていたとしても、それが緑間の探しているものなのか証明することは難しい。
 つまり、落としてしまった時点で取り返しがつかなかったのだ。
 さらにさかのぼって考えるならば、チョコレートをしまう場所がよくなかった。前ポケットではなく、きちんとカバンの中にしまうべきだったのだ。
 いや、受け取ったあとのことを想定しておくべきだったのだ。高尾からのチョコレートをきちんと保管できる紙袋か何かを用意していれば、こんなことには。
 完璧だったはずの計画が穴だらけだったことに気づいて愕然とする。なんてひどいミスなのだろう。これは人生最大の失敗だ。
 
(高尾に、なんと言えば……)
 
 黙っているべきか、正直に白状して謝るべきか。
 悩みながらも視線は未練がましく地面を這っている。行きの行程であれだけ探したのだから、もう見つかるはずがないのに。
 くよくよするのは性に合わない。重たく引きずる気持ちを振り切るために視線を上げる。すると、前方にあるコンビニから、カーキ色のモッズコートを着た後ろ姿がふらりと出てくるのが見えた。
 緑間がその姿を見誤るはずがない。小走りに駆け寄って追いつくと、形のいい黒い頭がおどろいたように振り返った。あざやかな橙が緑間を射抜く。
 
「……高尾」
「え、あ、真ちゃん!? なんでここに」
「おまえこそ、何をしているのだよ。用事があると言っていたが……なぜわざわざコンビニに? 校内の購買で必要なものはあらかた揃うだろう」
 
 高尾が気まずそうに目をそらす。
「えーと……その……し、真ちゃんこそ、何してんだよ」
「オレは……」
 
 今度は緑間が目をそらす番だった。言うべきか、黙っているべきか、いまだに判断がつきかねているのだ。
 言葉を探して黙り込んでいると、高尾がはあと観念したように息を吐いた。やけに深刻な響きのそれに、思わず身構える。
 悪い予感がする。
 もしかしたら。
 高尾はすでに緑間の失態に気づいているのかもしれない。それでひどく腹を立てて失望して軽蔑して緑間への愛情が目減りしてしまい、そのことを今、緑間に伝えようとしているのかもしれない。
 思い出してみれば、今日の高尾の様子は変だった。いつもなら移動教室のときはまっさきに緑間に声をかけてくるのにそれがなかったし、口数もすくなかったし、会話をしていても視線が合わなかった。昼休みに用事があると言っていたのは、緑間を避けるためだったのかも。
 考えれば考えるほど悪い方に考えがかたむいていき、緑間の全身から血の気が引く。高尾と別れるなんて嫌だ。それだけは、何があっても、どれだけ緑間に非があっても、絶対に、嫌だ。
 
「あのさ……」
 
 めったに聞けない重たい口ぶりで高尾が言葉を紡ぐ。緑間にはその続きを待つことしかできない。ごくり、とみっともなく喉が鳴った。
 
「これ」
 
 差し出されたのは、茶色い包装紙に包まれた箱だった。
 金色のリボンがかけられているそれはどう見てもプレゼントで、2月14日という日においてはひとつの意味しかもたない。だけど、これはいったいどういうことだろう。
 
「やり直し、させて」
「高尾」
 
 ぽかんとした表情の緑間に見つめられることに耐えかねたのか、高尾は頬を赤くして早口で言い募る。
 
「いやオレだって考えてたんだぜ、バレンタインどうしようって。でもいちいちかしこまるのもなんか変だよなとか、男同士でどうなのとか、そもそも真ちゃんそういうの興味ねえかもとか考えてたら、今日になっちまって。そしたら真ちゃん、なんかすげえのくれるからさ、なんか、あんなんじゃ釣り合わねえと思って。いやそれだってコンビニで買ったやつだから真ちゃんのとは比べ物にならねえかもだけど、でもあれよりマシだろ?」
 
 そこまで一気にまくしたて、高尾はがくりと肩を落とした。
 
「……ごめん。ほんとに、くれると思ってなかった。おまえがそういう、何にでも人事尽くすヤツだってわかってたのに」
 
 めずらしくしおしおとしょげた様子の恋人に、緑間の胸の底のあたりがむずむずしはじめる。
 らしくもなく、高尾も悩んでいたのだ。渡すかどうかギリギリまで悩んで、保険なんて言ってチョコレートを買って。
 ずいぶんといじらしい姿を想像すると、むずむずが止まらなくなる。沈みきっていた気持ちが、猛烈な勢いでてっぺんまで浮上したのがわかった。もし緑間が気持ちをストレートに表現できる性格だったなら、人目もはばからず抱きしめていただろう。
 だけど残念ながら、緑間にはそんなことはできない。
 しゅんとうなだれている頭を軽く叩いてやるのがせいいっぱいだ。
 
「くだらん」
「だって、朝渡したやつ、真ちゃん家行くまえに保険としてコンビニで買ったやつだし……いやそれだって今コンビニで買ったやつだけど、でも、保険じゃねえし」
「コンビニでもなんでもいいだろう。何が問題なのだよ」
「おまえ、オレにチョコ買うのにめっちゃ調べたりとか、デパートで女子だらけの売り場に並んだりとか、したんだろ? それと比べるとさぁ」
 

 いつも笑いの形をしている唇がへの字に結ばれている。
 どうやら悔しがっているらしいと気づいて、緑間は思わず小さな息を漏らした。本当に、高尾は負けず嫌いだ。
 

「なんで笑ってんだよ……あーもう、来年覚えてろよ! すっげーの贈ってやっからな!」
「せいぜいがんばるのだよ」
 

 ちえ、とふてくされる高尾に合わせて緑間は歩き出した。
 来年。いい響きだ。来年も高尾とこうしていられるかと思うと、ふわふわした心地になる。体が軽くなって、宙に舞えそうな気にすらなってくるから不思議なものだ。
 来年の今ごろはきっと、恋人らしいふるまいにも慣れているだろう。今年よりさらに人事を尽くして、また高尾を悔しがらせてやろうと思うと、ふわふわした気持ちがいっそう強くなった。
 

「――で、真ちゃんは何してたんだよ?」
 

 楽しい気分が、そのひとことで瞬時に霧散する。すっかり忘れていたが、緑間は失意のどん底にいたのだった。
 横で首をかしげている高尾と目が合い、低くうめく。やはり言うしかない。正直に話して謝ることがいちばん誠実だ。理解してはいるものの、なんと言うべきなのかわからない。
 寒い屋外にいるはずなのに、じわりと背中が汗をかいた。
 

「なんだよ、うーうー唸って。しっかし腹減った! 昼飯食ってる時間ねーよな、放課後まで我慢できっかな……。あ、そうだ」
 

 ごそごそとコートのポケットをさぐり、高尾が何かを取り出す。
 緑間の口ががくんと開いた。
 

「そ……それは……」
 

 高尾の手にあるのは、赤いチョコレートの箱だった。今日いちにち、緑間が血眼で探しまわっていたのとまったく同じ。
 驚愕にふるえる緑間におかまいなく、高尾はのほほんと箱を開けて中身を取り出そうとしている。
 

「待つのだよ!」
「わーってるよ、真ちゃんにも一本やるって」
「そうではない! そのチョコレートは」
「ん? これ? 朝真ちゃんにあげたやつ」
「な、な、なぜおまえが持っているのだよ!!」
「朝練終わって着替えてるときに、おまえのカバンから抜いた。やっぱこれじゃ人事尽くせてないよな~って」
 

 なんてことを。
 激しい疲労感に襲われ、緑間はがくりとうなだれた。
 忘れていた。高尾は断りなく人の持ち物を持っていくヤツだった。
 しれっと衝撃的な事実を告げた高尾は、あいかわらずのんきな顔でチョコレートの封を開け、ひとくちで食べてしまった。
 

「真ちゃんが気づくまえにちゃんとしたの買って渡そうと思ってたんだけど……あれ、もしかして気づいてた?」
「あたりまえなのだよ……」
「あーそりゃ悪かったな。……ん、もしかして。ま・さ・か……真ちゃんはあ、ずーっとこれを探し回ってたのかなー? それでこんなとこにいんのかなー?」
「……ッ、そのバカみたいな話し方はやめろ!」
 

 橙の瞳がにんまりと弧を描く。
 さっきまでしょげていたくせに変わり身の早いヤツめ。苦々しい気持ちを込めてにらみつけてやっても効果があるはずもなく、にやにや笑いがよりいっそう深くなるだけだった。
 

「そっかそっか~。いやーごめんなー? 真ちゃん今日ずっと不機嫌だしさあ、こんなテキトーなチョコもらってもうれしくなかったのかと思ってさあ。なんだよ、昼休み潰してこんなとこまで探しに来ちゃうくらいうれしかったんだ~?」
「あたりまえだろう! いいから返すのだよ!」
 

 高尾の手から勢いよくチョコレートと箱とをむしり取る。
 

「急いで買っただのコンビニだのどうでもいい。おまえがオレのことを考えてオレのために買ったのだから、これだって立派なバレンタインのチョコレートなのだよ。おまえの昼食代わりなんかにさせるものか」
 

 なんだよそれオレ腹減ってんだってといった抗議に備えて大きく息を吸い込むが、高尾からは何の反応もない。怪訝に思って高尾を覗き込むと、にやにやと笑っていたはずの顔はおどろいた形のまま硬直している。
 まぬけなのだよ、とおかしくなるのと同時に、むずむずした気持ちがこみあげてきた。
 このむずむずが「愛しさ」と呼ばれる感情だと、緑間は知っている。
 気づけば、呆けたままの恋人の鼻先にそっと唇をつけていた。その行動の意味を緑間自身が理解するまえに、高尾の顔が茹でたように真っ赤になる。
 

「し、真ちゃん」
「なんだ」
「なんだじゃねえよ……。ほんっと、おまえってさあ……」
 

 ずりい。つぶやかれた内容に納得がいかず首をかしげると、赤い顔をしたままの高尾がようやく、緑間が予想していた言葉を吐く。
 

「オレほんと腹減ってんだって……」
「知らん。というか、コンビニに行ったのならついでに昼食を買ってくればよかったのだよ。学校にもどりながら食えるだろう」
「真ちゃん天才!」
 

 ぱあっと顔を明るくしてコンビニへ駆けていく高尾を見送り、緑間は息を吐いた。本当に、ころころと忙しなく表情を変えるヤツだ。
 

(……このままでは授業に間に合わんな)
 

 それでもまあいいかという気持ちになって、空を見上げる。明るい色の青い空に、白い雲がゆっくりと流れていくのが見えた。ときおり頬を撫でる風は冷たくて、今の自分には気持ちがいい。
 空を眺めながら、チョコレートをふたつももらえるなんてやはり今日は絶好調なのだよ、と緑間は思うのだった。

 

 

 


2017.2.14