とろける夢2

 ……夢であった。
 ちゅんちゅんとスズメがさえずる声をBGMに、緑間は頭を抱える。
 とんでもない夢をみてしまった。まさか自分が、あんな卑猥な夢をみるとはとても信じられない。信じたくない。精通したばかりのころにうっかり夢精してしまったときですら、あんな生々しい夢なんかみなかったのに。
「……!」
 ハッと気づいて布団をめくりあげ、自分の下半身を確認する。おそるおそる確認作業を終え、緑間は安堵の息をついた。不幸中の幸いというべきか、パジャマや下着は汚れてはいない。
 大きく深呼吸をして、乱れた心を整えようと試みる。大丈夫、ただの夢だ。内容についても心当たりがないこともない。大丈夫、深い理由など何ひとつない。
 首を横に向け、ベッドの脇のサイドテーブルに視線を向ける。メガネをしていないのであまりよく見えないが、そこにはメガネのほかにちいさな丸い物体が鎮座しているはずだった。
「……石鹸、か」
 それは緑間の今日を最善にするために必要不可欠な物だ。六月十日、蟹座のラッキーアイテム、「丸い石鹸」。昨日、これを手に入れるために高尾を連れてあちこちのドラッグストアを探し回った。すぐに見つかるだろうと甘くみていたものの、なかなか思ったような石鹸が見つからずに苦労したのがきっといけなかった。そのせいで、あんな夢をみたのだろう。
「今日も人事を尽くすのだよ」
 そうつぶやいて緑間はベッドから降りた。なぜ相手が高尾だったのかということについては一切考えず、さっさと忘れてしまおうと心に決める。一日はもうはじまっているのだ。やるべきことは山のようにある。
 軽いストレッチをすませ、おは朝を見ながら朝食を摂り、顔を洗って歯を磨く。制服を着て、ラッキーアイテムをもって、玄関のドアを開ける――
「よー真ちゃん、おはよ」
 今いちばん見たくない存在が、満面の笑みを浮かべて目の前に立っている。
「な、なぜ……いるのだよ」
 わずかに声に動揺が表れてしまう。高尾が「ブハッ! なぜって、いつものことじゃん」とにぎやかに笑い出し、緑間は咳払いした。確かにそうだ。毎朝一緒に登校する約束などしたことはないが、ときどき高尾は予告もなくやってくる。特に、ラッキーアイテムがやっかいな物の日は。
「そーそー、今日のラッキーアイテムさー、これどーよ」
「む……?」
「昨日見つけたやつ、ちょっとサイズ的に真ちゃん不満そうだったじゃん? こっちのがいいんじゃねーかなって思って」
 どこか得意げにそう言って、高尾はカバンから丸いオレンジ色の物体を取り出した。
「この石鹸、オレが作ったやつなんだけどさ」
 片手に乗せられるほどのそれは石鹸であるらしい。緑間が昨日入手したものより二回りは大きいだろうか。
「ほれ」
「あ、ああ」
 ぽん、と放り投げられたそれを受け取る。ずしりと重たい石鹸からは、甘い香りがただよってきた。さわやかで清潔で、それでいて甘い――甘い……。
「真ちゃん?」
「ああ、いや、なんでもない。借りるのだよ」
 すまない、と言うと高尾は顔をほころばせた。その笑顔が、まるで大輪の花が咲いたようにまばゆく見えて目眩を覚える。今ようやく目が覚めたかのように、意識が覚醒したような気がする。鼓動がどんどん速くなっていく。
「お礼なんていいのだよー。さ、行こうぜ」
 緑間の混乱は極まった。なんだ今のは。なぜオレは、高尾の笑顔に目眩など。なぜ、動悸がする。なぜ、もう一度見たいなどと考えている。
「真ちゃん? どうしたんだよ、まだ眠いの?」
 からかうように笑う高尾から、ふわりと甘い香りが漂う。その香りがスイッチになって、今朝の夢があざやかによみがえる。石鹸の妖精だと告白する高尾の不安げな顔。緑間のからだを見つめる熱っぽいまなざし。欲情をかくさない甘い声。石鹸をまとったいやらしい指先。たっぷりの液体と一緒に包み込んできた熱い手のひら。そして、理性がふっとぶほどの強烈な快感。
 そうだ、これは、夢で嗅いだあの香りではないか。
 高尾はさっきこの石鹸を「作った」と言わなかったか。
「しーんちゃん」
 中にきて。
 妖艶に微笑む高尾の顔が目の前の高尾に重なってちらつく。
 なぜ高尾相手にあんな夢をみたのか。
 むせかえるほどの香りに包まれながら、その疑問から逃れることはできないのだと、緑間は悟っていた。

 

 


2020.6.10