「実はオレ、石鹸の妖精なんだ」と、高尾和成は言った。
「そうか」
短く答え、緑間はボタンを留める作業にもどる。制服の白いシャツのボタンは緑間の指には小さすぎるので、留めるのに若干の集中力が必要だ。
「驚かねーのな」
高尾はにやにやと笑いながら、着替えの手を止めない緑間を見ている。
部室には緑間と高尾しかいない。いつもは多くの部員がひしめきあう空間はしんと静まり返っていて、どことなく非日常の匂いが漂う。緑間の自称相棒が、そんな突拍子もないことを言い出したのはそのせいかもしれなかった。
「そういうわけではないが」
まあ、そういうこともあるだろう。となだらかな気持ちで最後のボタンを留めながら思う。世の中は広い。緑間の想像を超えるできごとなど、きっといくらでもある。
「なんだよ、つまんねえなあ」
「オレを驚かせたかったのか?」
視線を向けると、橙の目がおもしろがるようにきらりと光る。
「んー、まあ。真ちゃんがびっくりしたとこってかわいいし」
「バカを言うな」
憤慨してみせると高尾は満足そうに笑う。おかしなやつだ、と緑間は眉をひそめる。自分を怒らせたり困らせたりするのが好きだということは知っているが、なぜそんなことが楽しいのかはいまだにわからない。
小さな窓から差し込む午後の光を反射して、埃がきらきらと舞う。静かだ。いつも遠慮なく響く吹奏楽部の音も、校庭をランニングする野球部の声も聞こえてこない。
「それで、石鹸の妖精とはなんなのだよ」
「何って言われてもなー。石鹸の加護を受けてるっつーか、石鹸を加護してるっつーか」
「なんだそれは」
「うまく言えねーけど、石鹸とオレは一体なのだよ~って感じ?」
「……真似をするな」
「なあ真ちゃん。相棒が石鹸の妖精だと、困る?」
妙に神妙な響きをした声に、ふたたび視線を向ける。橙の瞳は笑いを帯びているが、その合間からはちらちらと不安の色がのぞいているのが緑間にはわかった。
まったく、不安なら不安だと言えばいいのに。だが高尾はそういう男だ。お調子者で単純そうに見えて、その内面は緑間の理解が及ばないほど複雑に入り組んでいる。素直に本音を言わない友人なら中学時代にもいたが、それとも少しちがうように思う。何がどうちがうのか、と訊かれると緑間にもこたえられないのだけれど。
「困るも何も、おまえはもともとその石鹸の妖精とやらだったのだろう? ならば今までとこれからで変わることなど何もないのだよ」
「そう? ホントに?」
「人事を尽くすのに、おまえの正体は関係あるのか?」
真剣に問うたのに高尾は勢いよく笑い出す。そこにははっきりと安堵が入り混じっていて、本音を言わないくせに妙なところばかり素直な男だと心中で嘆息する。
「さっすが真ちゃん、男前だねえ」
「フン」
にやりと笑う高尾はもういつもの調子をとりもどしている。ならばこれ以上気を遣ってやる必要はないな、と緑間はカバンを手にした。不安げな高尾など、見るに堪えない。へらへらと馬鹿っぽく笑っているほうがよほどいい。
「いやホント、石鹸の妖精も惚れちゃう」
そう言って高尾は勢いよく接近してきた。古いロッカーにばたんと押しつけられ、緑間はカバンを取り落とす。だが眉をひそめる以上の拒絶をしなかったことで調子づいたのか、遠慮のない様子で手が伸びてきてシャツを掴まれる。
「おい」
「――石鹸の妖精がどんなもんか、教えてやるよ」
その声は、はっとなるような艶を帯びていた。心底に眠る何かを揺り起こすような、のぞいてはいけない感情に誘うような、危険な響き。
あまりにも意外な声音に、一瞬思考が止まる。その隙を見逃さず、高尾は緑間のシャツのボタンに手をかけた。制止することもできず、苦労して留めたボタンが難なく外されていく。シャツをはだけさせられ、素肌があらわになる。とりたててめずらしいものでもないはずの緑間の半裸だ。なのに高尾の目つきはとろりと熱を帯びる。
「ほんといいカラダつきしてんなー……」
指が鎖骨から胸を滑っていく。ぬるりとした感触が続いて、緑間は目を見開いた。部活を終えてシャワーを浴び、汗を流した体はさっぱりと綺麗に乾いていたはずだ。それなのに、なぜ高尾にふれられたところがぬるつくのだろう。
「ふ、びっくりした? オレの指、石鹸みたいだろ」
見れば高尾の人差し指がとろりと濡れている。何か指につけていたのかと、とっさにシャツのボタンにふれるが、そこは何の異常もなく乾いていた。混乱して濡れた胸元とボタンに交互に視線を送る緑間を見て、高尾は心底楽しそうに笑う。
「これ石鹸だから。変なもんじゃねーから安心して」
「へ、変、とは、ッ!」
声が上擦ったのは、高尾がズボンのベルトに手をかけたからだ。獲物を追い詰めたとでもいうような、高揚した表情でさらに距離を詰められ、ますます身動きがとれなくなる。
「や、やめるのだよ」
「大丈夫。ちゃーんとよくしてやっから」
「ベ、ベルトが汚れる」
「へーきだって。ほら」
高尾の手に導かれてベルトにふれさせられる。黒い革のベルトはシャツのボタンと同じようにさらりと乾いていて、ぬるついている様子はない。
どういうことだ。口に出す前に、高尾の指がふたたび胸元にふれる。すると、粘着性のある液体がぬるりと肌をつたって流れていく。
「オレ、石鹸を自在に操れんの。な、石鹸の妖精っぽいだろ?」
っぽいと言われても、妖精などという存在に相対したことがないのでわからない。しかしそのことよりも、緑間の意識は外されていくベルトに向いていく。高尾が何をしようとしているのか、予想はつく。もちろんやめろと言うつもりだった。誰もいないとはいえここは部室だし、何より緑間と高尾はそういう関係にない。自身の道徳的観念と照らし合わせれば、どうやってもアウトだった。
それなのに、どうしてか口が動かない。言葉が紡げない。
ベルトがかちゃんと音を立てる。ひらりひらりと器用な指がズボンのホックとチャックを外していく。下着を引き下げられたところで、ようやく唇が動いた。
「や、やめるのだよ……」
「ふは、なーにその弱々しい声。全然やめてほしい感じしねーんだけど」
「だ、だが……ここは部室だし、オレとおまえは……」
「つきあってねーって?」
じっとりと熱を帯びた瞳が、してやったりと言いたげに細められる。赤く艶やかな唇が花咲くようにゆっくり開き、「ならつきあえばいーじゃん」と歌うようにささやいた。その誘惑を濃く煮詰めたような声音に、からだだけでなく脳も動きを鈍くさせていく。まるで毒のように、全身の神経を侵されているようだった。
「なぁ……真ちゃんは、オレのこと、嫌い?」
「嫌い、という、わけでは……」
「よかった」
ふふ、と笑う声が肌の上を滑っていく。いつものふざけた調子とはまったくちがう、とろりと甘い響きに肌が粟立つ。
「なら、オレにまかせて?」
「ま、まて……」
自分でもわかるほど力のない言葉は、高尾の小さい笑い声でどこかへ吹き飛ばされる。完全に露出した性器をやさしく撫でられて、緑間はぎゅっと目をつぶった。みっともない声を出してしまいそうだ。
「ひひ、なーんかウブな子襲ってるみてぇ」
「っ、ウブではない、が、襲っているのは事実だろう……」
「え? オレらつきあうんだろ? そんなら襲ってるって言わなくね?」
「何、を……ッ」
様子を確かめるようにゆっくりまさぐっていた指が、しだいにぬるぬるした感触を帯びていく。ふれられただけでも感じてしまう敏感な場所なのに、そんなふうにされてはたまらない。恥ずかしいと思う間もなく硬く屹立していく緑間のそれを、高尾は目を細めて眺める。
「へへ、元気じゃん。もっと気持ちよくしてやるな……?」
ごぷり、と音がする。視線を落とすと、高尾の手のひらからわずかに白く濁った液体があふれだしていた。
ふわりとやわらかく清潔な香りが鼻をくすぐる。この匂いは、確かに石鹸だ。ならば本当に高尾は。
「石鹸、なのか……」
「だからそう言ってんじゃん。へへ、ようやく信じてくれた?」
うれしそうに笑う高尾の手のひらからは、泉のように液体が湧き出ている。手の中にあるものを見せつけるようにゆっくり開閉される手に、爪先から頭のてっぺんまで電流が走った。これから何をされるのか予期できてしまい、うなじのあたりがちりちりと逆立つ。
「ま、まて、だめだ、高尾」
「真ちゃん……」
うっとりと名を呼ばれ、高尾の手のひらが緑間の自身を包み込む。くちゅ、と粘着質な音が立った。
「――ッ!!」
根元から先端まで、ぬるぬるした液体に包まれる。高尾の体温が伝わったのか石鹸液はあたたかく、余計に始末が悪いと緑間は歯を食いしばった。あたたかくぬるついたもので性器を愛撫されるなんて、きもちがいいに決まっている。
「ふへ、パンツ汚しちゃうかも。でも石鹸だからいいよな? あとで綺麗に洗ってやんし」
強烈な快感に喉をそらし、声を抑えるのがせいいっぱいの緑間をよそに、高尾はそんなことを言って楽しげに笑う。ちいさいとばかり思っていた高尾の手のひらはすっぽりと緑間の性器をその中に収め、緩急をつけて扱きあげていく。力強い手のひらが根元を押し撫で、器用に動く指先が裏筋を擦る。その度にぬちぬちと恥ずかしい音が立つのも、緑間の興奮を煽った。
部室で、しかも明るいうちから、高尾にこんないやらしい愛撫を施されている。その事実が、緑間の欲望を増幅させていく。自分がそんなふしだらな人間だと認めたくはないけれど、もう快感は拒絶しようがないほどしっかりと緑間を捕らえていた。
「んふ、かわいい……もうイきそうじゃん? 真ちゃん、イきたい?」
「イ、きたく、など……」
「素直じゃねえなあ。でもそういうとこも好きだぜ」
「な、高尾……」
思いがけない言葉に目を見開くと、どろりと絡みつくような声が「イくとこ見せて?」と誘う。耳の中までも粘液をまとう指先に撫でられたようで、背筋がふるえた。畳みかけるように鈴口を捏ねくりまわされ、足ががくがくとわななきはじめる。
「ほら、もう限界っしょ?」
「たか、お……」
意味をなさない呼びかけに、橙の瞳が笑む。崩れ落ちてしまわないように背中をロッカーに痛いほど押しつけ、緑間は腰を跳ねさせた。高尾の言うとおり、もう限界が近い。
「真ちゃん」
ねちゃねちゃと愛撫しながら、高尾が密着するようにからだを寄せてきた。やわらかい体温にますます脳が煮える。高尾のからだからも甘くやさしい匂いが香っていて、緑間をさらに快感の渦の中に押しやっていく。
「ぬるぬる、きもちいいだろ?」
もう返事ができない。肩をふるわせながら小刻みにうなずく。早く、体内で蠢く欲望を吐き出したい。熱を解放して、もっともっときもちよくなりたい。
「な、オレの中も、こんなふうにぬるぬるにできるんだけど」
高尾の瞳が、声が、ますますとろりと蕩ける。誘惑をたっぷり含んだ視線に射抜かれ、息もできない。
「中、入れたくない?」
花のような香りが鼻腔から全身に回っていく。さわやかで清潔で、それでいて甘くやさしい香り。もうこれが石鹸の匂いなのか高尾の匂いなのか、緑間には判断がつかない。
しんちゃん、と唇が動く。ぼんやりと麻痺した思考で、高尾の言葉を反芻する。そうか、高尾は中にも石鹸をまとわせることができるのか。そこは手のひら以上にきもちいいのだろうか。そうにちがいない。きっともっと熱くやわらかく潤んでいて、緑間をきゅうきゅうと締めつけて離さない。
「オレの中、きて……?」
いきたい。いれたい。即物的な欲望が思考を支配していく。もはや理性やプライドなんてものはなんの役にも立たず、ごく自然に緑間はうなずいた。ふふ、と軽やかな笑い声が耳を打つ。
「じゃあ、ほら、ここ……わかる?」
手を掴まれ、奥まった場所に導かれる。指先で軽くふれて、緑間は自分が歓迎されていることを確信した。そこは、やわらかくしとどに濡れている。
「いれて……」
溺れる。溺れてしまう。けれど、それでいい。甘い香りに溺れて、からだすべてを高尾の中に沈めてしまいたい。
ああ、そうだ。そうなのだ。オレは、高尾のことが――