リビングから、わぁっと沸き返る声が聞こえる。年末必ず放映されるおなじみの特番が今年もおもしろいのだろう。
高尾は笑えること、楽しいことが大好きだ。だから、いつもならまちがいなくテレビの前で家族と一緒に笑い転げている。今、そうしていないのは深刻な悩みを抱えているからだった。
「…………っはー……」
ベッドに寝転がり、スマートフォンを握りしめながら大きなため息をつく。勢いにまかせてごろりと寝返りをうつとベッドがぎしりと軋んだ。階下でまた家族が笑っている声がかすかに聞こえる。
高尾の手の中で青白い光を放っているディスプレイには、緑色と白のフキダシがずらりと並ぶ。そこに新しいものをつけくわえるかどうか、たったそれだけのことでずっと高尾は悩んでいる。
特に悩むことはないはずだ。今までだっておびただしい数のメッセージを送ってきたし、どう接したらいいかわからない相手でもない。……いや、どう接したらいいかわからない、は正解だ。どれだけ高尾が他人とのコミュニケーションに長けていようとも、これは容易に解決できる問題ではない。一年以上も友人だった同性が、恋人も兼ねるようになったときにどうふるまえばいいか、なんて。
ううと唸ってからアプリを落とし、スマートフォンをロックする。でもまた数分後には同じ画面を前に頭を抱えることは予想がついている。さっきからずっと、こうやって同じ行動をくりかえしているだけの無為な時間を過ごしているのだ。
もうひとつ大きく息を吐いてから脇にある枕を殴ってしまったのは、緑間の顔が脳裏にひらめいてしまったからだ。いつもすこしだけ怒ったように見える表情、光に透かすとやわらかい若葉の色になる髪、常に万全の状態に整えられている長い指先、痩せた体躯と比較すると案外大きく感じられる喉仏。緑間を形作るあらゆる要素を思い出すだけで、胸の底が焦げついたように痛む。火傷みたいだと思うとすこしおかしくて、高尾の口から小さな笑いがこぼれた。
緑間真太郎と恋人になったのは、ほんの数日前のこと。あの頑固で偏屈な変わり者は、こともあろうにいちばん大事な時期――ウィンターカップの真っ最中――に告白してきたのだ。今日態度がおかしかったがどうかしたのかという質問に対し、お前のことが好きだと気づいたからなのだと返されて高尾はおおいに混乱した。
緑間の、何事にも全力すぎるほど全力な姿勢は尊敬しているし、どこかすこしずれている様は見ていて飽きないから、そばにいると居心地が良くて楽しいのは確かだ。つい面倒をみてやりたくなるくらいには好きだ。世界中の誰よりもしあわせになってほしいと思うくらいには、大切だ。
自分が抱くこういった感情は、友情の域を大きくはみだしているという自覚はある。だけど、それを告げてどうこうするつもりはなかった。高尾にも、緑間にも、果たしていない目標がある。そのためには恋だの愛だのキスしたいだのといったものは邪魔になると高尾は考えていた。公私混同はよくない。どっちもほしいと欲張って、どっちにも傷をつけるような真似はしたくない。そんなことは自明の理で、緑間だって承知していると思っていた。
しかし、相手は緑間真太郎だった。世間一般の常識よりも自分の信念をつらぬくことに重きを置く男だった。「相棒で、恋人で、何が悪い。より強固な信頼と絆がオレとお前の間にできるだけだ」と――関係を変えることは、マイナスではなくプラスなのだと言い切った。緑間が言うと不可能なことも可能になる気がするのは惚れた弱みかもしれなかったが、それでも高尾はその言葉でふっきれた。
だから緑間の手をとって告げたのだ。オレもお前が好きだ、と。
そこまではよかった。問題はそのあと、今現在だ。
なにしろものすごく大事なウィンターカップ中だったから、告白の翌日からは甘い言葉も照れくさい気持ちも全部忘れてバスケに全精力をかたむけた。残念ながら優勝にはあと一歩手が届かなかったが、次は必ず、そう確信できるいい試合ができた。悔し涙はちょっとだけにして、来年こそは頂点を獲ろう。そう気持ちを切り替えて冬休みを迎えた高尾の脳内を占めるのは、緑間と両思いになったという暴れ出したいくらいの気恥ずかしい事実だった。
だって相手はあの緑間だ。いつも澄ましていて恋愛なんてまったく興味なんてないのだよみたいな態度をとっているくせに、陰でこっそり恋心を育てていたという事実だけで高尾はたまらない気持ちになる。それが自分に向けられているものだと思うと、なおさら。
(……真ちゃんがオレを好き、とか)
ウソだろと思う。緑間が自分を思って苦しくなったり会いたいと思ったり欲情したりするなんて、今でもちょっと信じがたい。自分と同じように、緑間も切なくてどうしようもなくなることがあったのだろうか。あらゆる意味でいちばんの存在になりたくて、泣きたくなることが?
そこまで考え、波のように襲ってきた気恥ずかしさに身もだえて顔を枕に埋める。緑間にそう思われていることはもちろん、高尾もそんなふうに緑間のことを思っているという事実もまだちょっと直視しづらい。ずっと、緑間への気持ちは意識しないようにしてきたから、あらためて好きなのだと自覚してしまうと全身がむずむずしてしかたがなくなってしまう。
(オレは真ちゃんが好きで、真ちゃんはオレを好き。おんなじ意味で。おんなじように)
うあーと意味のない音を発しながらごろごろと転がって、気恥ずかしさを発散させようと試みるけれど効果はない。ダメだ、照れくさくてしかたがない。どういう顔をして会えばいいのかわからない。だけど、始末が悪いことに、会いたくてしかたがないのだ。
(会いたいとか、恥ずかしすぎ。でも会ってどうしたらいいかわかんねーなんて、ますます恥ずかしいっつーの。……ああもうどうしたらいいんだよ!)
自分に悪態をつきながら、スマートフォンのロックを解除してまた同じアプリを立ち上げる。変わり映えのしない画面をしばらくにらみ、ため息と共にスマートフォンを放り投げた。情けないことに適切な文言が思いつかない。一緒に過ごすのに不自然でも恥ずかしくもない理由をくっつけて緑間を呼び出す、魔法のようなひとことがどこかにあるはずなのに見つからない。
(……今まで、どうやって会ってたっけ)
緑間に呼び出されることはたくさんあった。高尾から誘ったことももちろんある。会話の流れでなんとなく連れ立つことだって何回もあった。そのはずなのに、やりとりの詳細がまったく思い出せない。テストも部活もないこの時期、会う口実を思いつけない。
今ごろ緑間は何をしているのだろう。大晦日だし、大掃除を終えて家族でゆっくり過ごしているだろうか。ひとりでどこかの公園で自主練をしているだろうか。それとも両親の実家に帰っているのだろうか。ウィンターカップのドタバタと気恥ずかしさのせいで、年末年始をどう過ごすのかさえ訊ねていないから、緑間がどうしているのか気になってしかたがない。
(『今何してんの? ヒマならちょっと会えねぇ?』うーん、これなら変じゃねぇかな。……変だな。だって今までそんなこと言ったことねぇし。用もないのに会うとか彼女かよ……いやつきあってんだけど! つきあってんだから用がなくても会っていいんだけど!)
自分の発想がむずがゆくてじたばたしてみるものの、あほらしくなって動きを止める。まったくもって、らしくない。誰かとコミュニケーションをとることに対してこんなふうにどうしたらいいかわからなくなるなんて、今までなかった。それもこれも緑間のことが好きなせいだとわかっているから、気恥ずかしさが加速するばかりでいいアイディアは一向に浮かばない。
(恋は人を変える、ってか? うひー、キモ)
とめどなく妙な単語ばかりが脳裏に流れるのも、恋のせいなのだろうか。思考を放棄してどうでもいいことを考えながら忍び笑いを漏らしていると、突然ドアが開いた。
「……何笑ってんの、おにーちゃんキモい」
「な、なんだようっせーな! ノックくらいしろよ」
「緑間さん来てるけど」
勢いよく起き上がった高尾の表情を見て、妹はますます変な顔をした。だけどそれに構っていられない。急いで階段を下りると、玄関に緑間が立っていた。見たことのないグレーのコートを着て、くすんだオレンジのマフラーを巻いて、きちんと磨かれた革靴を履いて、しかめっ面をしている。
「……真ちゃん」
「――初詣に行くのだよ」
「へ」
いきなりどうしたんだよとか、今まだ22時だけどとか、なんでいつもよりおしゃれしてんのとか、そういった数々の疑問はマフラーに半分ほど埋まっている緑間の赤い頬を見て霧散する。疑問の代わりにくすぐったい衝動が押し寄せてきて、高尾は思いきり相好を崩した。
「へ、真ちゃん」
「……何をニヤニヤしている」
らしくねーじゃん、いつも会うときは絶対に事前に約束して、きっちり時間決めるお前が、連絡もなしにいきなり来るなんて。
そう言ってからかってやりたいけど、今の高尾にはそれができない。だって、高尾だってたったひとことのメッセージが送れなくてじたばたしていたのだから。
怒ったようにひそめた眉が、本当は困っていることが高尾にはわかる。本当は恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからない気持ちを心の内に隠していつもの表情を装っている。どうしてそんなことになっているのか、なんて考えるまでもないことで。
(ああ、もう)
好きだ、なんて照れくさくてたまらない言葉が口から出ていきそうになる。だけどこんなところで言うわけにはいかないから、代わりにへらりと笑ってみせると緑間の頬がすこしだけゆるんだ。
「早く支度をしてこい」
へーい、と笑って高尾は身を翻した。緑間に負けないくらい、着飾ってやろうと思いながら。
2016.1.1