きみの温かさを知る

 次々としたたり落ちる汗をぬぐって初めて、宮地は周囲の空気が冷えてきたことに気がついた。校則で定められた部活動の練習を終えて一時間。他の部員が残していった熱気が消えるのには十分すぎる時間だった。
 はあ、と荒い息を吐き出してもう一度汗をぬぐう。集中力が切れてしまった。今日はもう、この辺で終わりにしておいたほうがいいかもしれない。
 静かな体育館に、ボールをしまうカゴのキャスターの音が響く。ひとりで片づけをすることには慣れていた。文武両道をモットーに掲げる秀徳高校ではテスト期間中に居残り練習をすることは厳しく禁じられている。例外が認められることは稀だ。王者と呼ばれるほどの実力と実績をもち、多数の部員を抱えているバスケ部においてでさえ、その特権を得ているのは宮地しかいない。
 ひとりで練習するのは、嫌いではなかった。体力と精神力が続くまで好きなだけ、思いきりバスケができるから。
 
「今日は終わりか」
 
 ふいに声をかけられ、驚いてふりむく。体育館の扉にもたれかかっているのは見知った姿だった。どうしようもなく気持ちが緩んでしまう自分を自覚しながら、細心の注意を払って名前を呼ぶ。
 
「大坪」
「オレも今帰るところなんだ。図書室閉めるからって追い出されてな」
 
 笑いながらいつもより重たそうなカバンをゆすってみせた大坪に、うまく言葉をかけられない。逡巡したあげく、おう、と何に対する返答なのかよくわからない声を発してボールを拾い上げる。
 がごん、とボールがカゴに入る音がした。見なくてもわかる、大坪が立てた音だ。片づけを手伝うつもりらしい。
「いいって」
「ただ待っているのも退屈だろう」
 ここはオレがやっておくから、早く着替えてこい。そう言われて断る理由はどこにもない。見つけられない。きゅ、と胸がするどく引き絞られるのをふりきるようにして、大坪に背を向けた。
 
「もう冬だな」
「そうだな」
 
 短い会話にさしたる意味はない。ふたりの言葉が静かに吸い込まれていく空は濃く暗い青に塗りつぶされていて、いくつかの星が瞬いている。ちょっと前までは夕焼けが広がっていたはずの午後七時の空は、いつのまにか夜空に移り変わっていた。
 いつもは空を見上げることも、空模様の移り変わりに思いをはせることもしない。バスケがうまくなること、試合に勝つこと、じきに始まる最後のウィンターカップで頂点に立つこと。宮地の頭の中につまっているのはそんなことばかりだ。
 だけど、大坪とふたりでいると宮地の頭の中身は変化する。いつもは気づかないようなことにたくさん気づいてしまうのだ。星を見上げながら帰れる時期になったことや、吐く息が白くなってきたこと、ひとりきりで練習しているときに大坪が姿を見せるとうれしくなることなんかに。そうして、深い色をした空に流れる雲が綺麗だと柄にもないことを思ったり、何気ない会話がじわりと染みていく心地を味わったり、低くおだやかな声に聞き惚れたりしている。
 きっと、今頭の中をのぞいたら、ふわふわとやわらかいものでいっぱいになっていることだろう。愛してやまないアイドルのような甘やかさと華やかさを携えているそれは、とても優しい感触だ。心が浮きたつ一方で、泣きたくなるような色も帯びている。宮地の心を平らかにすることもあれば、ひどくとげとげしくさせることもある。不可思議で形容することが難しいそれを、宮地は嫌いにはなれない。むしろ、もっと味わっていたいとさえ思っている。
 だけど。
 
「風邪ひくなよ」
「ひかねーよ、このクソ大事な時期に」
「お前妙なところで迂闊だからな。頼むから、この季節に窓開けっぱなしで寝て風邪ひくとかしないでくれよ」
「もうそんなヘマしねーよ!」
 
 うっかり窓を開けて寝てしまい、風邪をひいたのは去年のことだ。いい加減忘れたい失態をもちだされてつい唇をへの字に曲げる。子どもっぽいと笑われる宮地のそのしぐさを見て、大坪の瞳がふっとやわらかくなった。
 あ、しまった。後悔してももう遅い。大坪の瞳に視線を合わせたことがスイッチになったかのように、宮地の心臓が駆け足を始める。鼓動を刻むたびに熱が生まれてじんわりと広がり、頭がぼうっとしてしまいそうに熱くなっていく。
 ただでさえやわらかいものでいっぱいなそこに温かい熱が加わったら、自分でもどうなるかわからない。生じた熱や高鳴る動悸をなかったことにしてしまいたいけれど、どうふるまうのが正解かなんてかなりの難題だ。口を開きかけて唇をかみ、視線をさまよわせた宮地を、大坪は目を細めて見つめている。そんなふうに見られることでますます気持ちが焦り、結局黙って歩くことしかできなくなってしまう。
 沈黙が続く。親しくない相手との会話の糸口がつかめない沈黙とも、親しい相手との心を許した沈黙とも違うそれは、落ち着かないくせにどこか甘い。この時間がいつまでも続いてほしいような、一刻も早く切り上げてしまいたいような、どっちともつかない気分がじわりと全身に回って息が苦しくなってくる。集中して気を引き締めていないと、おかしなことを口走ってしまいそうだった。
 
「……来週から予選だな」
 
 大坪の言葉を脳内で咀嚼してから、短く息を吐く。予選。
 頭の中を占めるふわふわしたものを追い出して、もともとあったものをきちんと置きなおしていく。バスケのこと。試合のこと。ウィンターカップのこと。
 
「まずは大仁田高とだな」
 
 宮地の言葉に、大坪はうなずく。その顔は主将のもので、さっき宮地に笑いかけたときのようなやわらかさはない。そのことに確かに安堵したのに、心の奥を落胆がかすめていく。だけど宮地は全力で気づかなかったふりをした。
 
「こう言ってはなんだが、まず問題なく勝てるはずだ。だが、相手は相当こっちを研究してくるだろうからな」
 
 今の秀徳バスケ部の最大の武器である後輩の顔を思い出して宮地もうなずく。トラックで轢いてやりたいと思うくらいには生意気なふたりだが、チームの得点源になっていることは疑いようがない。特に緑間はキセキの世代として名を馳せた、有名すぎるほど有名なプレーヤーだ。対戦する高校すべてが彼を研究してくることはまず間違いなかった。
 
「油断なんか絶対しねーよ」
 
 キセキの世代の登場により、今年の優勝争いは過去類を見ないほど熾烈を極めることが予想されている。だけど、宮地たちにとっては今年が最後なのだ。負けてもいいと思ったことなんて今まで一度もないけれど、今回は負ければ本当に終わりになるという事実がすこし違う重みを与えていた。
 一ミリだって悔いは残したくない。やりきりたい。ほかのどこよりも試合をしたチームになりたい。そして、王者の名にふさわしい栄光を手にしたかった。
 宮地がスタメンになったのは、三年になってからだ。入部してから、ずっと練習して努力して、だけど選ばれない苦しさを味わってきた。同じように選ばれなかった部員のなかにはあきらめて去っていく者も多くいたけれど、宮地はそんな彼らを横目にひたすら練習を積み重ねた。悔しくて眠れない日もあったし、ひそかに泣いたこともある。でも、一度や二度ダメだったから、才能がないから。そんな理由でバスケを捨てることなど、宮地にはできなかった。
 初めてベンチ入りした日はとびあがって喜んだ。初めてスタメンに選ばれたときは、誇らしさと充足感で心がいっぱいになってすこしだけ泣いた。二年かけて、やっとの思いでつかんだスタメンの座。そこに勝利を添えて秀徳高校バスケ部を去りたいと思う気持ちは、たぶん他の誰よりも強い。 
 選ばれたからには、必ずそれにふさわしいだけの活躍をしなくては。宮地がスタメンでよかった、そう思われるだけのプレイを見せなければ。純粋に勝利を求める気持ちの傍らで、宮地の心中ではそんな思いが燃えている。
 だけど、背負うものの重さと、つかみとりたいものの遠さに慄いたことがない、といえば嘘だ。
 きゅ、と無意識に唇をかみしめて忍びよる予感をふりはらう。そんな弱さを自分自身に許すわけにはいかなかった。
 
「……だいぶ改善されてきたとはいえ、緑間はまだスタンドプレイに走りがちだ」
 
 ふいに語り出した大坪に、宮地はまばたきを返す。
 
「高尾も一年にしては驚くようなゲームメイクをするが、だが熱くなると判断力が鈍る」
「ああ、まーそーだな」
 
 相槌を打つと、大坪がこちらを見た。その表情にどきりとしてしまい、思わず足を止めた。
 
「そういうときはお前が頼りだ。あいつらの足りないところを補ってくれ」
 
 大坪が笑う。キャプテンの顔で、瞳に温かいものを宿らせて。
 
「……ったりめーだろ」
 
 とっさに返答ができず、妙な間があいてしまった。おかしなふうに歪む顔をごまかしたくてうつむいたとたん、心臓の奥がじんと熱く痺れたような心地がした。
 どうして大坪はいつもそうなんだろう。
 心のうちを見抜かれているのかと不思議に思うくらい、大坪は宮地にいちばんほしい言葉をくれる。気負いすぎるな、でも無理をするな、でもなく、頼りにしている、と。
 覚悟を決めてゆっくり大坪に視線を送ると、優しい笑いに迎え入れられる。ああ、と形容しがたい思いをそっと吐息に変えると、白い水蒸気が空へのぼっていった。
 ずっと前から気づいている。
 大坪がいつも宮地を見ていること。テスト期間中は図書室で勉強しながら宮地の自主練が終わるのを待っていること。さりげなく差し伸べられる手が、かけられる声が、友情以外の気持ちを帯びていること。
 ずっと前からわかっている。
 自分がそれに応えたいこと。大坪が惜しみなく降らせてくる慈しみや優しさを、ひとつだって無駄なものにしたくないと思っていること。大坪に向かって伸ばす手や、かける声に友情以外の気持ちが混ざってしまっていること。
 だけど、宮地の胸に宿るバスケへの熱はそれを異質なものだと叫んで遠ざけたがる。
 三年間築いてきた、自分たちのバスケをすること。どんな局面でも決してあきらめないこと。心を落ち着けて、脳みそを焼き切れるまで稼働させて、コートの外なんて目に入らないくらい集中する、そんなコンディションを保つこと。そういったことと、大坪の声とかさりげない態度がもたらすくすぐったさや、体中を駆けめぐったあげくに唇からこぼれそうになる熱い衝動は不釣合いだ。
 全然性質が異なるものを両方抱えて戦い、負けたら。――悔いる、なんて言葉ではきっと足りないだろう。
 だから口にはしない。態度にも、出さない。そう決めている。
 
「絶対に優勝する」
 
 何度も胸の中で唱えてきた誓いを、大坪に向かってくりかえす。もちろんだ、と応える大坪にだって自分と寸分違わない気持ちが宿っていることを宮地は知っている。
 自分の下している判断は正しいのだ。果たすべき目標に対して不必要な事項は後回しにする。それがまちがいだなんて誰も言わないだろうし、宮地だってまちがえているとは思っていない。
 だけど。
 
「しかし、本当に寒くなってきたな。そろそろコートを出さないとダメだな」
 
 空を見上げてぼやく大坪の鼻の頭が赤くなっている。見かけによらず細やかなことが好きな男だから、今年もきっと手製のマフラーを首に巻く姿が見られるのだろう。お前のぶんも編んでやろうか。去年冗談交じりでそう言われたことを思い出せば、ぎゅっと気道がふさがったようになって息が苦しくなる。大坪に手編みのマフラーを贈られたら、木村は笑うかもしれないが、宮地はきっと笑えない。後生大事にして、毎日必ず身に着けて、こっそりとお守りみたいに扱う。
 
「宮地? どうした」
「なんでもねーよ」
 
 じわりと性懲りもなく心の奥底から顔を出そうとする感情が、大坪を温めたいと主張する。そんなことできるわけがないのに、そうしたがる自分は矛盾しているしわけがわからない。
 隣を歩く大坪を見つめる。たとえば今ここで、宮地が大坪の手を握りでもしたら。寒いから、あっためてやると言ったら。大坪はどうするだろう。
 考えてもしょうがない問いだった。宮地にはわかっている。もし自分がそうしたら、大坪はきっと笑う。そしてすこし照れながら、ためらわずに宮地の手をとるだろう。
 大坪はどちらかといえば器用な男だ。早い時期からスタメンに選ばれるようなすぐれた選手だし、誰ひとり不満を口にしないほど立派にキャプテンを務めている。勉強もそつなくこなしているし、生活態度にも問題は見当たらない。そして何より、いつでも自分のことより他人のことを気にかけることができる度量の持ち主だ。自分のことで手いっぱいな宮地とは違う。
 きっと、大坪は。白い息を夜空に散らしながら宮地は考える。きっと大坪は種類の違う熱をふたつ抱えながら戦うことができるだろう。さっき宮地にしてみせたように、コートの中でもきっと上手にきりかえる。キャプテンとして檄を飛ばしたあと、恋人の顔で微笑みかけることすら、できるかもしれない。
 だから、大坪が何も言わないままでいてくれているのは、きっと宮地のためなのだ。バスケと大坪への思いを同時に抱えることができない不器用な宮地のために、気持ちを押しつけることなくただ隣にいてくれる。そばでそっと、見ていてくれる。
 そのことが、どれだけ。
 カバンを開けて中身を探る。練習着やシューズのさらに奥に押し込んでいた手袋をひっぱりだして、大坪の鼻先につきつけた。
 
「おら」
「……なんだこれは」
「手袋だよ、見りゃわかんだろ。寒いならこれしてろよ」
「だが、そうしたらお前が」
「見てなかったのかよ、これはずっとカバンに入ってたんだよ。オレは今手袋なんか必要じゃねーの。キャプテンが風邪ひいたなんてだっせえマネする気かよ、撲殺すんぞ」
 
 ぱちぱちと子どものように目を瞬かせてから、大坪は手袋を受けとる。ゆっくりとした動作で手にはめて、ようやく「ありがとう」と言った。
 
「宮地が手袋を持ち歩くなんて、意外だ」
「うっせーよ、オレだって防寒対策くらいするっつーの」
 軽口の応酬に笑む大坪の耳がさっきよりも赤い。黒い瞳にきらめく優しい色の熱がひときわ強くなったことを感じ、宮地は胸にせりあがる感情をなんとか飲みくだした。
 あとすこし。
 これから始まる激しい戦いを勝ちぬいて、頂点に立ったら。
 そのときは自分の手で、冷えたその手を温めたい。もらった熱を、きちんと返していきたい。
 
「だから今はそれで我慢しとけ」
「何か言ったか?」
 
 半歩先を歩いていた大坪がふりかえる。ちゃんと聞いてろよバカ、と悪態をつきながら宮地は言葉を変えて思い人に届ける。
 
「今年はぜってー優勝するっつったんだよ」
 

 
 

 
 

 
 


2015.7.15
タイトル→確かに恋だった