緑間真太郎は、困っていた。いつでもポーカーフェイス、何においても事前準備を怠らない彼にしてはとてもめずらしいことだ。
緑間は、本来器用な人間ではない。バスケで驚異的な力を発揮するのも、成績がいいのも、知識が豊富なのも、すべては彼の努力によるものだ。これと思い決めたものに対し、地道に努力を積み重ねることで数々のものを得てきた。結果、唯我独尊だのワガママだの言われるわけだけれども、言いたい奴には言わせておけばいい。
己の道を貫いて何かを極めることには長けている。だけど、それだけでは及ばないことが世の中にはあるのかもしれない。最近、ふとそう思うようになった。
たとえば、今みたいなときがそうだ。
前を歩く男の頭を見つめる。いつもは軽快なリズムで揺れている黒髪は、今日はひどく物静かだ。そして心なしか、歩く速度がはやい。緑間をふりかえることもない。そもそも、ふたりでいるときに向こうが先を歩くこと自体が稀だ。
名を呼ぼうと口を開きかけてやめる。こんなことで自分が弱りきっているだなんて認めたくなかったし、緑間が困っていることに気づいていながら無視を決め込んでいる態度に腹が立っていないこともなかった。
なんなのだよ。ふだんのおまえのおふざけに比べれば、かわいいものだろう。
悔しまぎれに心中で悪態をついてみても、現状が変わるはずもなく。
答えてくれる人もいないまま、何度目かの疑問をくりかえす。
こんなときはどうしたらいい。
高尾を怒らせてしまったときは、どうしたらいい。
きっかけはとてもささいなことだった。
朝食をとりながらおは朝占いを見ていて、緑間は今日の日付を再認識した。四月一日。俗にエイプリルフールと呼ばれる日だということは知っている。中学時代、それでさんざんバカ騒ぎをしていたチームメイトがいたからだ。
嘘をついてもいい日、か。
卵焼きをつまんでいた箸を下ろし、ふむと考えこむ。嘘をついて騒ぐなどくだらないとしか言いようがないが、あいつはそういうのがいかにも好きそうだ。きっと朝から妙な嘘ばかりついてオレを騙し、笑い転げるつもりにちがいない。一年の短くとも濃いつきあいを経て、それくらいはわかるようになった。
ならば、と緑間は作戦を立てる。先手必勝なのだよ。
その作戦はまちがっていなかったと思う。朝会うなり、高尾はにやにやと笑いながら「真ちゃん知ってる? 四月からはでんぐり返ししながらじゃねーと体育館に入れねーんだぜ」なんてバカなことを言ってきたのだから。
高尾の子どもじみた嘘に対抗して、緑間は嘘をつきかえした。それだけのことなのだけれど、緑間のついた嘘がどうやらいけなかったらしい。高尾はみるみるうちに表情を硬くして唇を引き結び、それ以来口をきいてくれない。おかげでチャリアカーの出動も今日はなしで、ふたりして長い通学路を無言で歩いている。
このままだと今日いちにち、ずっと気まずい。今は春休みで授業がない。ずっとこの状態の高尾と体育館で過ごすのは気が引けた。
だからといって、どうすればいいかなんてまったくわからない。そもそも、高尾が怒るところを見ること自体がはじめてなのだ。バスケをしているときの好戦的な態度や、思うようなプレイができないときに覗かせる苛立ちなら知っているけれど、こんなふうに誰かの言動に対して心を逆立て、けわしい顔で黙り込む姿など、知らない。
他人を怒らせたことは、今までに何度もある。だけど機嫌を直してもらうためにどうすればいいか、ということに思いを馳せたことはなかった。自分の発言がまちがっていない自信があったから、それを曲げて相手に媚びるようなことはしたくなかったのだ。
今回はすこし色合いが違うのは、なぜなのだろう。発端がくだらない嘘だったからか、相手が高尾だからなのか。
思い悩むことがバカらしくなり、咳払いをひとつする。
「高尾」
ついに呼んだ名に、けれど高尾はふりかえらない。焦れてもう一度呼びかけるも、結果は同じだった。
「……返事をするのだよ!」
肩をつかんで無理やりふりむかせると、きつくとがったオレンジ色が緑間の心臓のあたりを射抜いた。
「高尾」
ふたりの足が止まる。その先をどうするか考えていなかったことに舌打ちしながら、緑間は言葉をさがす。
「どうした」は白々しい。「怒っているのか」は見ればわかることだし、「怒るな」も怒っている人に対して言うのは意味がないような気がする。
「……いい加減、やめたらどうだ」
結局出てきたのはそんな言葉で。いつもなら緑間の足りない言葉に噴き出す高尾が、不機嫌そうに眉をひそめる。
「何が」
低い声はいつもの明るさも優しさも内包していない。怯んでしまっている自分を心のなかで蹴飛ばし、鼓舞の意味も含めて鼻を鳴らす。
「お前が先に、くだらん嘘をついたのだろう」
高尾の眉間のシワがく、と動く。もの言いたげな瞳をくるりと回して、高尾は大きなため息をついた。
「……真ちゃんさあ」
「なんだ」
ようやく口をきいてもらえたことに安堵していることを悟られまいとがんばったら、不必要に偉そうになってしまった。
「世の中にはついていい嘘と悪い嘘があんの。さっきのおまえのは、悪いほうのヤツだったの」
わかる? と言う口調は、完全に子どもに言い聞かせるようなそれだ。
「……なぜだ」
自分は明らかに嘘だとわかる嘘をついた。新学期が始まったらアメリカに行ってバスケをする、なんて。
そんなのどう考えたって嘘だ。いきなりアメリカに留学なんてできるわけがないし、第一、緑間はまだ人事を尽くせていない。秀徳高校バスケ部で日本一になる、その目標を達成するまでは他のどこにだって行けないのはわかりきった話なのに。
はあ、ともう一度高尾はため息をついた。次の瞬間、緑間をみすえた瞳はあいかわらず鋭く、鮮烈な色をしていた。
「真ちゃんなんかキライ」
――心臓が止まった。
もちろん、実際に止まったわけではない。だけど緑間にとって、それは心臓が止まったと形容するのがふさわしい衝撃だった。
ずくん、と心臓が脈打つと同時におそろしく重くなる。頭のなかは真っ白だ。視界が不安定に揺れて、何も考えることができなくなる。喉の奥で何かがはりついて、呼吸ができない。ひどく苦しい。
「……って言われたらイヤっしょ? 嘘ってわかってても」
「……嘘なのか」
「あたりまえだろ。今のは、ついちゃダメな嘘の見本な」
嘘だったのか。認識した瞬間、心がふわりとどこかに着地する。どこかはわからないが、やわらかくて優しいどこかだ。その着地を見届けたように高尾が眉を下げた。しょうがねえなあ、と唇がいつもの言葉をささやくから、緑間の心はますますふわふわしたところへ飛んでいく。
真ちゃんなんかキライ、が悪い嘘だというならば。
さっきの緑間の嘘も、あんな気持ちにさせるものだったのだろうか。心臓を止めるような、つまさきから凍えさせるような、世界から色をうばうような、そんな嘘だったのだろうか。
「……バカめ。オレが本当に、アメリカに行くわけがないだろう。秀徳で日本一を獲る。オレがその目標を放棄するとでも思うのか」
「バカなのは真ちゃんだろ。いくらエイプリルフールでも、人を傷つけるような嘘はダメなの!」
「傷ついたのか」
すくなからず驚いて聞きかえすと、高尾が顔をゆがめた。
「べっつに! 真ちゃんがやりかけたことを放り出すわけねーことくらい知ってるし」
だけどそれでも傷ついたのだ。緑間がアメリカでバスケをやると言ったことに傷つきそしてそんな嘘をついたことに怒ったのだ。ふだん、緑間が何を言っても笑っているだけのくせに。誰にどんな態度をとられても、怒りはしないくせに。
胸に萌すのは苦い感情だ。それが罪悪感と呼ばれる類のものだと緑間にもわかっている。けれど、残念ながら緑間は素直に謝罪できる性格ではない。
苦々しい、心臓をちくちくとつきさしてくる感情を追い払うには謝罪する他に術がないのに、それができないのはきっと人事が足りていないせいだ。いつものようにそう思ってみるけれど、じゃあ何をどうすれば高尾に謝罪できるのだろうか。
だいたい、高尾が傷ついていない、などと言うのもいけない。素直にとても傷ついた、と訴えてくれたら緑間だってきっとごめんと言えるはずなのに。考えあぐねて、ようやくひとつ思いつく。
「オレはもう、エイプリルフールに嘘はつかないのだよ」
「……は?」
「だからお前もつくな」
高尾の瞳がおかしそうに弛む。それが見たかったのだ、と緑間は思う。
「ぶは、何ソレ、意味わかんね」
「約束するのだよ」
「はいはい、わーったよ。約束な?」
「では高尾。お前はさっき、傷ついたのか」
高尾がぎょっとした顔をする。緑間の真顔を見て、忌々しそうに舌打ちをした。
「ずりぃぞ、真ちゃん……」
「答えろ」
「……傷ついたら悪いのかよ」
嘘をつくことを禁じられた高尾の、せいいっぱいの逃げだ。やや不十分だが、これで満足するべきだった。
「悪くはない。傷つけたのなら、その。……すまなかった」
「し、真ちゃんが謝った」
「うるさい」
春風が頬を撫でていくのが涼しくて心地いいから、たぶん緑間の顔は赤くなっている。だけどくるりと前を向いた高尾の耳も赤くなっているから、きっとおあいこだ。
「……慣れないことはするものではないな、嘘をつくなど」
「ふは、そーだな。真ちゃんがエイプリルフールに乗っかるとか、マジ似合わねーわ」
いつもの気安いやりとりがもどってきた。ようやく、いつものように緑間も歩き出す。
「真ちゃん」
「なんだ」
「好きだぜ」
とつぜん告げられた言葉に、目をぱちりとさせる。一呼吸置いて、高尾の胸にも自分と同じものが巣食っていたことを理解した。心にもない嘘で相手を傷つけたことへの、罪悪感。
「オレも、好きなのだよ」
嘘はつけない。さっきそう約束したから。
緑間の言葉をふーんと聞き流すフリをしている高尾の耳は、さっきよりもさらに赤い。
嘘をつけない日、というのもいいかもしれない。いつも素直になれない自分たちにとっては。
風に揺れる黒い髪から覗く真っ赤な耳を見ながら、緑間はそんなことを思う。そして、この約束を忘れずにいようとひとりひそかに誓ったのだった。
2015.6.3
on my wordの前日譚
ラキおま1のペーパーだったような