別れ話をしよう

 いつもより念入りにシャワーを浴び、新しい下着を身につける。鏡を覗いていつもよりていねいに髪を乾かし、整える。
 鏡に映るのは、こころなしかこわばった男の顔。最大の武器である笑顔はどうした、と揶揄してみても男の表情は変わらないままだ。
 無理もないよな。そうつぶやいてオレはオレを許す。今日くらい、自分を甘やかしてやってもいいはずだ。
 今日、オレは別れ話をしに、緑間に会う。

 
 緑間が指定した店は、古いバーだった。年季が入っていそうな黒い木の扉を開くと、薄暗い店内をぼんやり照らすキャンドルの光が視界にちらつく。さすがに緑間もわかっているらしい。なにせ別れ話なのだ。明るくてさわがしい店なんて論外だし、ぴかぴかに磨かれた清潔すぎる店も不合格だ。
 会って話そうと言ったのはオレだ。しつこいが別れ話なのだ。いくらなんでも、メールや電話ですませるわけにはいかない。
 店内を見渡しても緑間の姿はなかった。カウンターの隅に腰掛け、バーボンを頼む。飲んだことのない酒がこの場にはふさわしいような気がした。
 それにしても、別れ話にもってこいの店だ。静かで、古びいていて、気だるげで。緑間はどうやってこんな気の利いた店を探し出したのだろう。あんなに気の利かない男だったのに。いや、融通というべきか。まわりにおもねることができず、絶えずあちこちと軋轢を起こしていた高校時代を思い出す。仲裁も通訳も、全部オレの役目だった。バスケに関しては他の追随を許さない天才のくせに、対人交渉となるとてんでダメだったあいつの世話をみて、まわりとなじませてやり、社交辞令なんてものまで教えてやったのはこのオレなのに。くそ、どうしてこうなった。
 オレの忸怩たる思いは緑間の登場によって断ち切られる。こういう空気を読まないところはあいかわらずか、と思うとすこしだけ余裕がもどる。
「ミモザを」
 カクテルを頼む低い声に、場の雰囲気を壊さない程度に笑ってみせる。何年経っても甘党なのは変わらずだ。
「なんだ」
 オレの静かなからかいを咎める視線は、いつもよりだいぶやわらかだ。オレに気を使っている可能性には目を瞑る。こんなときに労られたってプライドが傷つくだけだ。
「酒弱ぇんだから無理すんなって」
「無理などしていない。おまえこそ、なんだそれは」
 ほとんど減っていないグラスを指し示され、平然を装って唇をつける。強い酒がぱちぱちと喉を転げていき、胸に落ちて焼ける。思わずむせてしまい、緑間から同情のような視線をくらう。くそ、失敗した。今日だけはこいつに胸の内を見透かされたくないというのに。
 運ばれてきた細長いグラスを優美にかたむける横顔を見つめる。神経質そうな丸みを帯びていた頬の線はやわらかに細くなり、あどけなかった首筋はしっかりと筋肉の厚みを増した。男のくせにやけに長い睫毛に彩られた瞳は、出会ったころよりずっとおだやかになった。毎日のように眺めていたこいつの顔は、オレの気づかぬ間に すっかり大人の男性になっている。偏屈で気難しくておは朝占いが大好きな変人だったくせに。いや、それは今も変わらないはずだけれど。
 あんなに近くにいたくせに、オレはどうしてこいつの心変わりに気づけなかったのだろう。
「……なんだ」
「べつに。老けたな真ちゃん」
「おまえもな」
「あーあ、ちょっと前まで高校生だったはずなのになぁ。バスケして、バスケして、バスケしてたのに」
 嘆くオレに、緑間は薄く微笑む。その笑みはオレを置き去りにする類のものだ。ちくしょう、と心の中で怨嗟する。同じ時間を同じだけ歩いてきたはずなのに、緑間はもうとうにオレが越えられずにいた溝をとびこえている。
「……高尾」
 テーピングのない左手が、オレの右手にふれる。オレよりもでかい手はあたたかく乾いている。今までに何度もふれた手だ。それなのに今日はまったくちがった感触をオレにもたらす。
「おまえだってわかっているはずだ。もう、今までのようにいられないことくらい」
 緑間の声はあくまでもおだやかだ。すべてを受け入れて先に進む覚悟を固めたことが明らかな声音に、オレの心がひっきりなしにさざめく。せめて、こいつもすこしくらいは動揺してくれていたら。
「オレが変わったとおまえは責めるが、おまえだって心変わりをしているのだよ」
 人差し指がオレの手の甲をなだめるように撫でる。
 わかってる。わかっている。だけど、でも。
「……別れたく、ない」
 緑間はまたか、という顔をする。そのうんざり顔に心が揺れないこともないけど、これがオレの偽らざる本心なのだからしかたない。
「何度も言うが、これは別れではない。新しくはじめるだけだ」
 薄く整った唇からぽろぽろと綺麗事がこぼれる。誰が想像しただろうか。あの緑間真太郎が、こんな、白々しい美辞麗句を述べるようになるなんて。離婚を決めた芸能人のようだ。このたびわたしたちは夫婦ではなく、新たな関係を築くことを決めました――。なんて。
「でも、これまでのようにはいられない。今日までのオレたちは、終わるんだ」
 からん、と氷が鳴る。緑間との過ごした時間はもはや山積していて、オレから取り除くのは不可能だ。今日まではただの時間の積み重ねだったそれは、今日からは思い出になる。もう決して戻れない日々の、化石になる。
 ばかばかしいと言わんばかりの態度で緑間が立ち上がる。もうオレと会話をするつもりはないらしい。
「行くぞ」
 ぐずぐすしているオレから伝票を奪い、緑間はレジに向かう。颯爽とした後ろ姿に、最後のため息をもらした。
 オレだって、わかっている。自分の心の変化だって、見て見ぬふりはしていたけど、きちんと把握している。一度変わった心はもう元の形に戻せないことも、緑間が選んだ道がただしいことも、理解している。
 薄暗い店内に煙のようにただよう躊躇いをふりきり、扉を開ける。オレを待っていた緑間がやれやれとため息をついた。
「……気は済んだか」
「……それなりに」
「まったく、何が別れ話だ」
 緑間の手が伸びてきて、オレの手をつかむ。長い指がしゅるりと植物みたいにオレの指に絡んできてうろたえる。その動揺を見て、緑間が鼻を鳴らした。
「もう文句は言わせんぞ。店を出たら、心を決めてオレとつきあうと約束したのはおまえだ」
「……うう。だからって、手とか」
「つないで何が悪い」
 もう恋人なのだからな、となぜか誇らしげに言い放ち、緑間はずんずん歩き出す。しかたないからオレも歩き出す。
「おまえのそのよくわからん感傷にはもうつきあわんからな。まったく、オレのことが好きなくせにうだうだと。こんなに面倒な男だとは思わなかったのだよ」
「うるせー。嫌ならオレのこと好きとか言うなよな」
「フン、これから死ぬほど言ってやるから覚悟しておけ」
 ぎゅっと指の力が強まる。オレは顔を上げて歩けない。いくら人気がなくて暗い道だからって、恥ずかしくて死にそうだ。
 あーあ、ずっと相棒でいれば安全だったのに、オレのバカ。うっかり特別な気持ちが育って、見ろよ、恋人なんかになっちまった。
 だけど目の前のエース様は初めて見るくらいに上機嫌で、オレの心臓はびっくりするほど高鳴って足なんかふわふわと雲の上を歩いてるみたいだ。
 だからもう、しかたない。受け入れるしかない。
 そっと手を握り返して、オレは、今日までのオレたちにさよならを告げた。

 

 


2017.7.19